出前授業

出前授業@高砂市立荒井小学校

2018年2月1日(木)

「震災・災害報道について考える」

兵庫県の南西部、高砂市にある高砂市立荒井小学校に行ってきました。
1月末からこの日にかけて西日本を襲った大寒波と異常低気圧の影響で九州から中国地方は大雪が降り、高砂市も今にも雪が降ってきそうな空模様です。
そのような中、5年生4組およそ130人が授業に参加してくれました。

【学校からの要望】

5年生社会科の学習で、『情報産業とわたしたちのくらし』という学習があり、震災報道を題材に、放送局がどのような備え取り組みをしているのか、番組を作るにあたって工夫・配慮をしているのかを学ぶと同時に、阪神淡路大震災から20数年を数え、児童に震災に備える気持ちを育む機会になればとの要望を受け、授業を行いました。

【授業内容】

講師は1987年に入社してから30年にわたりずっと報道局で、記者、カメラマン、編集マンとしてニュースやドキュメンタリーの仕事を続けてきた、報道映像部の野上隆司編集マンです。野上編集マンは1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災そして2016年の熊本地震と3つの大災害の報道に携わってきました。
今回は特に大きな地震に向き合った経験をもとに、テレビニュースを作る現場でスタッフたちが何を考えて何を伝えようとしているのかについて話をしました。

<ここからは、授業を担当した野上隆司編集マンのリポートです。>

(1)阪神淡路大震災(1995年1月17日発生)

当時私は、神戸市長田区に住んでいました。1歳半の息子と妻の3人家族で、息子と一緒に寝ていたわけですが、突然ものすごい揺れが起こります。とっさに隣で寝ているはずの息子の上に覆いかぶさりました。妻はすでに起きていてテレビをつけお湯を沸かしていたみたいです。妻は息子の名前を叫びながら、寝室に飛び込んできました。3人でお互いをかばいあうように丸まりながら揺れが収まるのを待っていました。幸い寝室にはベビーダンスぐらいしか家具がなかったので3人ともケガはありませんでした。
ここで分かったことは、地震のときに食器の割れるパリーンガシャーンという音が本当にするんだということ。映画なんかでそういうシーンは見慣れていましたけど、本当に家じゅうの陶器やガラスなどが粉々に割れていく音というのは、本当にああいうものなんだ、と揺れに耐えながらぼんやり思ってました。
地震の揺れに関しては、いろんなひとがいろんな言葉で表現しています。私の印象は「巨人がマンションの私の部屋をひっつかんでめちゃくちゃに揺さぶっている」という感じでした。同僚のカメラマンは「首根っこをつかまれて振り回された感じ」と言っています。ドーンと突き上げるような縦揺れがあったというのは、いろんな人が言う共通体験みたいですが、私はあまり記憶にありません。ただひたすら体験したことがないくらいめちゃくちゃに家ごと揺さぶられた、というのが実感です。
揺れが収まって落ち着いたころ家の中はめちゃくちゃでしたが、とりあえず当時は記者ですから何かビデオで映像を撮って会社に送らなければと思いました。そしてビデオを手にして街に出て撮影をしました。

<ここで生徒の皆さんにそのビデオを見てもらいました。>

撮影の途中でバッテリーが切れました。電気は当然来てないので、充電することもできず、かといってビデオを貸してくれる人もいるはずがないので、ビデオ撮影をあきらめました。
このとき阪神高速が倒れているとは思っていませんでしたし、三宮のビルが崩れているのも知りませんでした。とにかく現場はここだ、と思いました。ただ、伝えるすべがなく、そもそも道路が寸断されていたので、大阪の本社から記者やカメラマンが来ることはしばらくありませんでした。そこで電話リポートも考えましたが当時、携帯電話は普及していなく、私も持っていませんでした。停電のため家の固定電話もつながらず、たった一つ使えたのは公衆電話でしたが、そこには長蛇の列ができていました。列に並んでる人は、たぶん身内の人たちに自分の状況をなんとか早く伝えたいと、必死の思いだったろうと思います。その人の邪魔をする気にはなれませんでした。
震災の後、被災地では爆発的に携帯電話が普及したというイメージがありますが、それはそれしか通信手段がなかったからです。メールやLINEを使って人とコミュニケーションをとるのが当たり前になったのは、それよりもずっと後の話です。

さて、被災地には「誰々は無事です。どこどこの避難所にいます」というような張り紙があちこちに貼ってありました。実際、被災地に足を運んでその張り紙を読まない限り、事態は何も伝わらなかったし、伝える方法がありませんでした。コミュニケーションの取り方が一気に大昔にもどってしまいました。
マスコミという言葉は「多くの人たちを相手にコミュニケーションをとる」マス・コミュニケーションの略です。テレビ局もマスコミという範疇にいます。電気・水道・ガスなどのライフラインが完全に途切れた状態になり、コミュニケーションの手段自体が大昔に戻った時点で「テレビ局は何がやれるのか」が私に突き付けられた課題でした。
その後、私は関西テレビの神戸支局に合流して長田区の被災地を取材することになりました。

1995年1月頃の私

被災地には電気が来ていませんし、当然テレビは映りません。被災した人のために報道しなければ、と思いながらそのテレビを見られるのは被災地の外、電気もガスも水道もあるところ、あえて言えば「安全な場所にいる人」にしか伝えられません。
「何やってるんだろう」と思いました。実際に私の周りにいた避難所で寒さに震えている人、食料や水に困っている人、病気に苦しんでいる人、家を失って途方に暮れている人のためになる情報を伝えることができない。テレビが見られない人に伝えるすべがない。一体誰に向かって私は報道しているんだろう?という疑問は常に持っていました。そのようなことを考えながら仕事をしていたのですが、これはそんな時期のリポートの原稿です。原稿が黒ずんでいるのは、取材場所だった市場の焼け跡にずっといて煤けてしまったからです。

地震発生から4日目の朝を迎え、徐々に落ち着きを取り戻してきた神戸市長田区では焼け跡に住民が戻ってきました。
午前9時ごろから住民たちはかつて自分の住みかだった場所を訪れます。
火災現場に残してきたものを探し出すため、一心にガレキの山を掘り起こす姿があちこちで見られました。それはお金であり、書類であり、そして時には家族の一人だったりするのです。
全てを失った人が今までの生活とつながる何かを探し求める姿が非常に印象的でした。

取材場所はあたり一面が焼け焦げ、地震直後の数日間はほとんど人影をみることができませんでした。そんな頃に三々五々人影が見えだした日があったので、リポートにしてみました。
ニュースの5W1H「いつ・どこで・誰が・何を・なぜ・いかにして」という情報は、原稿の中に入れるというのがニュースの鉄則で、この原稿はそういった意味では失格です。「誰が」がきちんと定まっていないし「なぜ」に関してもちゃんと突き詰められていない。単なる私の感想文みたいになっています。
しかし、ある上司にこのリポートはほめられました。「被災者はなんで焼け跡に戻ってくるのかなぁ、と思ってたんだ。野上のリポートでわかったような気がした」私が書いたリポート原稿は具体的な事実を伝えてないかもしれないがその場にいないと感じられないことをきちんと言葉にして見る人に伝わるようにリポートできていた、ということだと思っています。
また「誰に向かって報道しているのか」という悩みについては「被災地そのものに向けられなくても、被災地の外に対して『被災地はこんなひどい状況です。こんなにも困っている人がいます』と訴えることが、周囲の助けを呼ぶことになるんだから、決して無駄ではないんだ」との言葉もあり、それを胸に震災を報道していました。

ところで、この年はボランティア元年とも言われています。テレビや新聞などで、被災地の悲惨な状況を知った人々が「手助け」にやってきました。その数はどんどん増えました。私たちのリポートがそんな流れを作るために少しでも役にたっていたらなぁ、と思っています。
さて、報道の役割の一つとしてとても重要なことがあります。それは「命を守る」ことです。「命を守る」というとたいそうに聞こえるかもしれませんが、たとえば、台風情報は「これからこの地域で大雨になりますよ」「川が氾濫するかもしれませんよ」「がけ崩れの可能性が大きくなりましたよ」と事前に伝えることで、見ている人の注意を促して、危険そうだから早めに避難しよう、と思ってくれるように報道しています。
では、地震の場合はどうでしょうか。厚生労働省の調査によると、阪神淡路大震災で亡くなった80%以上の人が1月17日当日の午前中に自宅で圧死・窒息死で亡くなっていることが分かっています。つまり寝ている間に家や家具の下敷きになって亡くなった人が大半だということです。
阪神淡路大震災は直下型地震と呼ばれていて日本のどこでも起こる可能性がある地震です。
これは「ここが揺れるよ」と予知することは台風とは違って難しいです。そして、いったん揺れてしまうと逃げることができない。だとすれば、どうやったら命を救えるか。それは、「家を頑丈にする」「家具が倒れてこなくする」それしか方法がありません。その結果、阪神淡路大震災後に、建物をより頑丈にするように法律が変えられました。私たちマスコミは「家具を固定するのにこんな方法がありますよ」という情報を流しました。しかしながら、現在家具を固定している家はどれぐらいあるでしょうか。私の家もあまり耐震補強をしていません。「もう来ないだろう」という勝手な予測をついしがちです。このようなことに対しても「油断してたら地震が来ますよ、備えをちゃんとしないとダメですよ」ということをテレビを通して言い続けて少しでも被害者を少なくすることも私たちテレビ局の役目です。

その後私たちは「もっと積極的に命を救えないものか」と考え、たどり着いたのがプレート型の地震に対する報道です。プレート型地震は地震そのものの被害よりもそれに伴う「津波」がさらに大きな被害を引き起こします。ただ津波はやってくるまでに時間がかかり逃げる余地がわずかかもしれませんがあります。不特定の多くの人々に語り掛けるのはテレビの得意とするところです。ならば、「逃げてください」と繰り返し伝えよう考えました。

大地震が起こった場合、私たちは通常の放送を中止して報道の特別番組を放送することが決まっています。いち早く危機を伝えて一人でも多くの命を守るためです。そのために毎年何回も訓練をして、最短時間で特別番組を放送できるように練習しています。
これがその訓練の時の映像、実際にテレビに映る画面の一つです。

画像の中の「逃げろ」は最近付け加えられた言葉です。文字情報が多すぎてぱっと見ても何が何だかわからないので、一番大事な言葉をちゃんと目に入るようにしようしましたが、まだまだ検討中です。
しかし、このように来るべき大震災に備えていた私たちの予想を自然災害というものは軽々と超えていきました。

(2)東日本大震災(2011年3月11日発生)

福島・宮城・岩手の東北3県を襲った津波でとてつもなく大きな被害を出した地震です。死者およそ2万人・行方不明も2500人以上。行方不明の人の数が多いのもこの地震の悲惨さを物語っています。
津波がすべてを奪ったということです。

そのとき私は会社で仕事をしていたのでテレビで震災報道を見ていました。津波が次々に街を襲う様子が生中継で送られてくるのを見ていて、ちょっとめまいがしたのを覚えています。私の記憶の許す限りでは、大災害が生中継されるというのは東日本大震災が最初です。そしてできれば最後にしたいと願っています。
この津波が宮城県名取市閖上地区を襲いました。このあたりは何度も津波被害にあった歴史をもっていてました。街にはこんもりと一段高くなった日和山という場所があり、そこには昭和8年に起きた津波被害を忘れないようにという内容の石碑があります。にもかかわらず、逃げ遅れた人がたくさんいました。
いくら注意しなさい、気をつけなさいと言われても「自分だけは大丈夫」と人は思うものです。これは仕方がないことかもしれませんし、よりよい生活を求めるにあたって「少ない可能性」を無視していくというのは人間の常です。こういう意識を難しい言葉で「正常性バイアス」と言います。災害で傷つく人の数を少しでも少なくするためには、まず、このバイアスと闘わなければなりません。だからこそ私たち放送局は何度でも繰り返さなければならないと思っています。「とにかく逃げてください!」と「自分の命は自分で守ってください」と。

さて、日本で暮らしている限り、地震からは逃げられない、いつ被災者になるのかわからないという現実は変えようがありません。2年前、2016年の4月にも熊本で大きな地震がありました。

(3)熊本地震(2016年4月14日発生)

震度7という大きな揺れが2度も熊本の街を襲いました。本当の揺れの前にそれと同じぐらいの揺れ「前震」というものがあることを私たちは初めて知りました。
地元の系列局であるテレビ熊本は関西テレビと違って人数も少ないので、関西テレビから編集マンを応援に送り込むことになりました。
最初に応援に行った編集マンは阪神淡路大震災の頃から働いているベテラン編集マンでした。彼はこう言いました。「阪神淡路大震災の時にいろんな系列局から応援してもらった。今回はその恩返しです」と。彼はある歌を熊本に持っていき「この曲を震災の番組で使わせてくれませんか」と熊本のスタッフに頼みました。その歌は阪神淡路大震災の直後自らも被災した小学校の先生が作詩、作曲し東日本大震災でも中国の四川大地震でも歌われている『しあわせ運べるように』です。熊本ではこの歌が震災復興のテーマ曲として繰り返しニュースで流されて多くの人たちを励ましているようです。
私たち関西テレビの報道スタッフも今から23年前、この歌を聞いてずいぶん励まされました。そんな記憶が、応援で熊本に行った編集マンにこの歌を熊本に届けたいと思わせたのかもしれません。

最後に、自分を振り返ってみて、ちゃんと報道できたのか?伝えるべきことを伝えられたのか?と問いかけてみると「全然できなかった」というのが実感です。あの時の被災地に何があったのか。悲しみや怒りは確かにありましたけど、私が伝えたかったのは「人の強さとやさしさ」だったのではないのかな、と思います。震災がなければ話すこともなかった人たちが、あの頃はみんなお互いを思いやり、いたわって、「みんな一緒に生きよう」と助け合う姿をたくさん見ました。しかし「人間捨てたもんやないよ」というメッセージを私は結局出せませんでした。
また、その後の大地震に立ち会いながら人の命を救うこともできませんでした。もちろん私にそんな力があるとは思っていないですが、ひとかけらの助けさえ満足にできていなかった。そんな大きな宿題が23年前に出されて、それをまだ提出できていないのが私です。だから、可能な限り一生報道という現場に携わりたいと思うようになりました。新聞もろくに読まない劣等生だった私が今でも報道を続けている理由はそういうことです。
長い時間聞いてくれてありがとうございました。

<授業を終えて、野上編集マンの感想です。>

出前授業の準備をしながら「小学5年生ってどんなもんやろ?」と悩みました。どれぐらいやさしい言葉を使うべきなのか、難しい話をどこまで理解してもらえるのか?
結局、大人に対するのと同じレベルで授業を組み立てることにしました。その日分からなくても、心のどこかに残っていて、いつか分かってくれたらいいか、と思ったからです。ただし、私がやる授業が児童の皆さんの「心に残る」ことが前提ですので、責任重大です。
実際、授業をやってみて不安は杞憂に終わりました。児童の皆さんはおしゃべりすることなく、よそ見をすることもなく、まっすぐに私を見て長時間の授業を一生懸命聞いてくれました。やってよかったと思います。そして、少しでも伝わっていればいいな、と思っています。
授業の準備をする中で、いろいろと昔の自分を思い返し、忘れかけていたことを思い出した気がします。私にとっても非常に有意義な時間でした。荒井小学校のみなさん、本当にありがとうございました。

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