JR事故から18年 「誰かにこの恩を返していきたい」 事故車両から救出された男性 5年にわたる治療・リハビリ 心のこもった医療に感謝の思い 作業療法士となり被災地でも活動 2023年04月25日
JR福知山線の列車が脱線し、多くの人が犠牲となった事故から4月25日で18年となります。当時、列車の2列目に乗り、重傷を負った男性。事故の体験から、作業療法士となった男性の思いを取材しました。
■大学通学中に事故 両足切断のおそれも 18年たった今、何を思う?
兵庫県川西市に家族4人で暮らす、中野皓介さん(36)。18歳のとき、大学へ通学する途中に、列車の脱線事故に巻き込まれ、重傷を負いました。
2005年4月25日の朝、兵庫県尼崎市でJR福知山線の列車が制限速度を大幅に超えて走り、カーブを曲がりきれず、脱線し、マンションに衝突しました。
【中野皓介さん】
「揺れが激しくなってその次の瞬間に、自分はつり革を持って一番後ろの連結部分のドアの所に立っていたんですけど、扉側に立っていた方がスーッと反対の扉に滑り台をすべるように落ちていった。次の瞬間はもう挟まれているような形でした」
この事故で、乗客106人が死亡、562人がケガをしました。
【中野皓介さん】
「当時は必死で『誰か助けてくれへんかな』とか、周りの人で『苦しいな』って言っている人に声をかけたりとか、自分の体で挟まれているなら、もぞもぞして動かしたりとか、たぶんお亡くなりになっていた方をさすって、『大丈夫ですか』って声かけたりとか」
中野さんは、列車の2両目から助け出されました。長時間、物や人に挟まれたことで両足が壊死(えし)する「クラッシュ症候群」と診断され、兵庫県災害医療センターで、腫れあがった足の血液を循環させる手術を行いました。
【中野皓介さん】
「次の検査で先生たちが駄目と診断したら『切断します』とはっきり言われて、そういうことなんやな、現実を受け入れるしかないなと。当時の18歳の男ができる最大の自分を守る方法やったんやろうなと思う」
奇跡的に両足とも回復したため、切断は免れましたが、事故によるフラッシュバックや生き残ったことへの罪悪感に悩まされました。
【中野皓介さん】
「夜中とかに急に目が覚めて看護師さんに、『ここは地震が起こったら大丈夫ですか』って聞いたりとか、ちょっと不安もあったり。かなり感情が揺れ動いていた、身体の状況とともに、というのはあったと思います」
想像もしていなかった現実と向き合う中、そっと見守ってくれている人たちがいました。
【中野皓介さん】
「その病院の理学療法士さんとかが『ちょっと歩けるようになったね』とか『自分で行けているね』とか、そういう一言一言がすごくうれしかった。気持ちの入った看護・医療をしてくださっていたので、すごく感謝しています」
■支えられる側から“作業療法士”として支える側へと
5年にわたる治療やリハビリで、足は運動ができるまで回復しました。そんな中野さんは今、大阪の摂津市保健センターで「作業療法士」として、高齢者や障害者のリハビリ支援をしています。
事故の前から作業療法士になることを目標にしていた中野さん。今は支えられる側から、支える側になりました。
毎週、地域のボランティアによって開かれる健康講座でも、寄り添いながら接する中野さんに、場の空気も柔らかくなります。
【中野皓介さん】
「医療って直接恩返しとか、お医者さんや看護師さんにするのは難しいけれど、自分がもらったものを誰かに、例えば、当たり前のコミュニケーションとか、誰かに返せるような人になりたいなとは強く思うようになりました」
■執刀した医師と再会 共に災害医療支援も 思い新たに「恩返ししていきたい」
この日会いに来たのは、事故当時、足の手術を担当した大阪医科薬科大学の冨岡正雄医師です。2人は2015年に再会しましたが、18年前の事故について話したことは、ほとんどありませんでした。
【中野皓介さん】
「最初の手術の説明とかね」
【冨岡正雄医師】
「覚えているの?」
【中野皓介さん】
「覚えていますよ」
【冨岡正雄医師】
「そこまでは僕は覚えていないんですけど、ただ、メッシュの植皮のホッチキスをとるときに、ごっつ痛がったよね」
【中野皓介さん】
「痛かった」
【冨岡正雄医師】
「あれは覚えている、泣いていたもんね?」
【中野皓介さん】
「泣いた。めっちゃ痛くて」
事故の経験から、災害医療にも興味を持つようになった中野さん。冨岡先生と共に災害が起きたときに医療支援を行うチーム・「大阪JRAT(日本災害リハビリテーション支援協会の地域支部)」に所属し、熊本地震や大阪府北部地震などでは支援活動をするようになりました。
【冨岡正雄医師】
「もう今はどないもないの?ときどき不安な気持ちがあるとか?」
【中野皓介さん】
「全くないかと言われたらそうでもないですけど、日常生活が普通にできるくらいで」
【冨岡正雄医師】
「よく乗り越えたね」
【中野皓介さん】
「でもほんまに、兵庫県災害医療センターで本当に一生懸命、心のこもった看護・医療をしてくれて、それがすごい頭に残っていて。作業療法士になっても、この人らの横で仕事なんて無理やろうなって思っていたけど、どっか役に立てるところに、直接恩返しできなくても、誰かに困っている人に返せたらなっていう思いは当時からあります」
15年前に行われた事故の追悼慰霊式で、中野さんはこう話していました。
【中野皓介さん】(2008年当時)
「いまだに生きていてよかったのかなと自問することもあります。しかしその答えはいくら考えても出ません。生かされた命を一日一日大切にし、少しでも誰かに元気を与えられるよう、これから生きていきたいと思います」
事故から18年。今の思いを改めて聞きました。
【中野皓介さん】
「生き残ってしまったと言ったらそうかもしれないし、誰かが生かしてくれたといったらそうかもしれないし、複雑な中でこの十何年間生きている。誰かのために、そうやって諦めない気持ちを示したりとか、共有していくことで、途絶えざるを得なかった人の命もどこかでつながっているのかもしれないなと思う。自分にとって今の仕事がそういうこと、そのままお返しできるわけではないけど、違う形でもいいので、誰かに何かをちょこっとだけでも、恩返ししていきたいと思います」
18年前、救われた命。あのときの恩を、また別の人に。忘れられない記憶と共に、生きている人たちがいます。
(2023年4月24日)