“昭和99年”語り継ぐ 家族が語る復員兵の『PTSD』 「みんなで死のう」戦争のトラウマで家族に向けた狂気「根っこは戦争。みんなの問題なんだ」 精神に不調きたし入院した日本兵は約1万人 2024年08月18日
戦争が終わり、生きて帰れたのに、心に傷を負った復員兵たち。
彼らの多くは、家族にその狂気を向けました。
壮絶な経験をした家族たちが語り始めた、知られざる「戦争トラウマ」の現実です。
■父の死に万歳…しかし「父のことを知るべきだった」
家の階段に飾られた家族写真の中で、1つだけハンカチがかけられた写真があります。
大阪市東淀川区でカフェを営む藤岡美千代さん(65歳)は、今は亡き父親の写真を、直視することができずにいます。
【藤岡美千代さん】「(父の写真は)まだちょっと見られないですね。まだまだそういう記憶の方が、実際に体に受けた痛みの方が思い出される」
【藤岡美千代さん】「夜中にガバっと父が起きだして、子供の寝ている布団をはいで、敵をやっつけるぞって顔で、大魔神みたいに目が吊り上がって、私とか兄がつかみあげられて柱に投げられたりとか、踏みつけられたりとか」
藤岡さんの父、古本石松(ふるもと・いしまつ)さんは、鳥取県の農家出身で、21歳の時に召集され、海軍に配属されました。
終戦の時に所属していたのは、千島列島にある航空基地。ソ連軍によって、極寒のシベリアにおよそ3年間抑留されました。
復員後に生まれた藤岡さんにとって父親は、酒浸りで、定職にもつかず、家で暴れてばかりの存在でした。
【藤岡美千代さん】「私を正座させて、『お父ちゃんはな、トラックの運転をしながら、敵の砲弾の中、救援物資を運んだんや』って言う」
「で、そうかと思うと、雨が降ると、部屋の隅っこでガタガタ震えながら『あいつが殺しに来る』って」
「突然夜、私と兄を起立させるんです。『起立!』ビシっ!って、軍隊みたいな感じですね。ピシっと立たせて、『起立』って言うんですよ。私と兄がピシッてすると、台所のプロパンガスの栓を開けて、シューってガスが出るんですよ。それをすると、お父ちゃんは『みんなで死のう。みんなで死ぬんだ』って言って。私の中では『心中ごっこ』ってネーミングしてるんですけど」
「そしたら母が半狂乱になって、『死ぬんだったらお前だけ死ね』って、ガスを止めに行くんですね」
その後、離婚が成立し、母親に引き取られた藤岡さん。父親が亡くなったのは、そのすぐ後。藤岡さんが9歳の頃でした。
【藤岡美千代さん】「うれしくて、うれしくて。もうあんな人いないんやって。死ぬっていう意味はよく理解できていない。ただ、死んだらいなくなるっていうのはもう分かってるので、私はもうスキップして、『やった、やった』って何回か万歳しましたね」
自殺だったと知ったのは、何年も後のことでした。
親戚からは、「戦争に行く前は優しかったが、帰ってきたら人が変わってしまった」と口々に聞かされました。
すぐには受け入れられず、最初は父親のことを忘れようとした藤岡さん。それでも、ふとしたきっかけで虐待の記憶がよみがえり、一時的に精神が不安定になることもありました。
そんなことを繰り返すうち、藤岡さんは「父親は、戦争でのトラウマによって精神に不調をきたし、虐待をするようになったのではないか」と考えるようになりました。
【藤岡美千代さん】「心の中で父を抹消してしまっていた自分に対する贖罪(しょくざい)というか、もっと父のことをちゃんと知るべきだったなという、それはすごく大きいんですね」
■約1万人の日本兵が精神の不調に「敵が迫る声が聞こえる」
実は戦時中、日本兵が戦地でのトラウマから精神疾患を発症し、幻聴や幻覚などに悩まされる事態が相次いでいました。
日本軍は、表向きにはその事実を隠した一方、精神に不調がみられた日本兵の数は、軍の病院に入院した兵士だけでも、およそ1万人といわれています。
このうち、およそ8000人分のカルテのコピーが、千葉県内の病院に今も保存されています。終戦後、軍が焼却を命じましたが、軍医たちがひそかに保管していたのです。
カルテには、さまざまな症状に苦しんだ兵士たちの様子が克明に記録されています。
【中国大陸に出征した陸軍歩兵のカルテより引用】「山東省ニテ 良民六名殺シタルコトアリ 之ガ夢二出テ ウナサレテナラヌ」
「特ニ幼児ヲモ一緒ニ殺セシコトハ 自分ニモ同ジ様ナ子供ガアッタノデ 余計嫌ナ気ガシタ」
わが子と同じような幼い子供を殺さねばならなかったという苦しみ。
そして、砲弾を足に受けてから不眠症状などが表れた陸軍の歩兵。
【中国大陸に出征した陸軍歩兵のカルテより引用】「何ヲ質問スルモ 『スミマセヌ』『スミマセヌ』『殺シテ呉レ』トイフ」
「敵ガ迫ル声ガ聞コエルトイフ(幻聴)」
保管作業に携わった元軍医は、次のように記しています。
【国府台陸軍病院 元軍医 浅井利勇さんの著書より(原文のまま)】「貴重なこのあかしを、真実を、残しておきたい」
「これらの患者は、考えてみると大戦がなければ、或いは彼等が経験したような人生の悲劇をせずに済んだかもしれない」
藤岡さんのような、戦争で心に傷を負ったとみられる日本兵の家族が、自らの体験を語る動きが今、広がっています。
【黒井秋夫さん】「私共のこの会は、日本人の兵士が、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になり、その父親たちが子どもたちに暴力ふるったり、自殺したり、アル中になったり、そういうことでもって苦しんだ父親たちやその家族です」
黒井秋夫さん(75歳)は、「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の代表をしています。
【黒井さんのホームビデオより】「おじいちゃん、ピースしてくれ。早くしてくれよ」
孫から話しかけられても、一言も言葉を発しない高齢の男性。黒井さんの父、慶次郎さんの晩年の様子です。
34歳で戦地から生きて帰ったものの、亡くなるまでのおよそ40年間、定職にもつかず、家族は貧困にあえいでいました。
【黒井秋夫さん】「ただいるだけ。それが普通だったんで、期待もしないし」
「とにかく、こういう人間には絶対、俺はならないと」
しかし数年前、偶然見たドキュメンタリー番組が転機に。ベトナム戦争帰りのアメリカ兵がPTSDに苦しむ姿が、父親と重なったのです。
軽蔑すらしていた父親のことを知ろうと、遺品のアルバムを見ると、写っていたのは、別人のような勇ましい顔つきをした、軍服姿の父親でした。
慶次郎さんは、陸軍の兵士として約7年間、中国大陸の戦地でゲリラ討伐など、過酷な任務に従事していたことも分かりました。
知れば知るほど、黒井さんもまた、「父親は戦争によって“抜け殻”のようになったのではないか」と思うようになりました。
【黒井秋夫さん】「言ってみれば、われわれはちゃんとした人生を送れなかった父親のもとで、ちゃんとした父親の愛情とかも受けられないでって意味でいうと、人生としては被害者。日本の歴史からすると被害者という側面を持っているわけだけれども、被害者が言わないと、あるいは声を出さないと、ないことになってしまうということなんです」
幼少期、復員兵の父親から虐待を受けていた藤岡さんも、2023年から、自らの体験を講演会などで語るようになりました。
【藤岡美千代さん】「私自身が体験した父の暴力、そういう話をするようになって、これは全く私の個人史ではなくて、根っこは戦争なんだっていうところでは見過ごすことはできない。これは戦争を体験してきた世代以降のみんなの問題なんだ」
戦争のトラウマを抱えた復員兵たちが、家族に向けた狂気。戦後79年たった今もなお、家族たちの戦争は終わっていません。
(関西テレビ「newsランナー」 2024年8月14日放送)