“疎開”で幼い心を傷つけあった子どもたち 「疎開の子どもをいじめた張本人は僕です」70年の時を経て心のしこりを取り除く旅【夏休みに振り返る#戦争の記憶】 2023年08月12日
太平洋戦争の終戦から70年がたちます。戦時中、空襲を受けることが多くなった都市部から、子どもを地方へ避難させる学童疎開が行われました。この学童疎開でできた“心のしこり”を、70年たってようやく取り除くことができた人たちがいます。(2015年7月放送)
■太平洋戦争終盤 激しくなる空襲を避け、都市部の子どもたちは地方に疎開
【米倉澄子さん(79)】
「あの辺とかこの辺で畑をいっぱい荒らしました。懐かしいですねえ。こんな穏やかだったんでしょうか」
兵庫県豊岡市出石町を訪問したのは、70年前に神戸から疎開していた米倉澄子さんです。太平洋戦争の終盤、激しくなる空襲を避けるため、都市部の子どもたちは地方に疎開させられました。小学4年生だった米倉さんが疎開したのは神戸市が大空襲を受けた1945年6月5日の3日前でした。
【米倉さん】
「君たちはこれからこの国を背負っていく小さな兵士なんだよ。だから君たちの命は神(天皇)に捧げる、日本の国のために役に立てる大事な命だから、その命を落としてはいけないから疎開するって、最後出発するときにそう言われました。校長先生から」
出石町に疎開した米倉さんたちを待っていたのは、地元の小学生たちによるいじめでした。
【米倉さん】
「『疎開っ子、疎開っ子』っていじめられたんです。現地の子とけんかばかりしてたんです。男の子は学校に行っても」
米倉さんは今、子どもの頃に体験した戦争の悲惨さを語り伝える活動をしています。
■疎開児童と疎開先の子どもたち 70年ぶりの再会
そんな米倉さんに突然、出石町に住む男性から連絡がありました。
【米倉さん】
「『疎開の子どもをいじめた張本人は僕です』って電話が掛かってきた。これは今年、戦後70年だから、なんとかして今年(疎開先に)行きたいと思って」
米倉さんは一緒に疎開していた仲間4人で出石町を訪れました。
【米倉さん】
「お電話いただきまして、私、米倉と申します」
当時いがみ合っていた相手との70年ぶりの再会です。
【福冨亨さん(82)】
「我々の遊ぶ道具というか、いじめる道具みたいなもんですわ。(疎開児童に)渋柿をあげて、こっちは甘柿を食べるという光景が残っているんですよ」
(寺坂の小学校には行っていた?)
【米倉さん】
「学校で勉強していたんですよ、最初は。ところが男の子がけんかして…」
【当時疎開していた林久男さん】
「学校は記憶がないんですね」
【米倉さん】
「栄養失調になって、吹き出物がいっぱい出て、ノミとシラミに悩まされて」
【福冨さん】
「それが面白うて、わしら行きよった。日が照ったらお寺に」
【米倉さん】
「お寺で私らがシラミ取りしていたら、門の所にみんな来て、『疎開っ子がシラミ取りしとる』って言われてね」
戦争の真っ只中だった幼い頃の記憶がよみがえります。
57人の児童が4カ月間寝泊まりしたお寺を訪れました。出迎えた住職は、疎開当時、まだ小さな子供でした。
【米倉さん】
「そうちゃん、そうちゃん。まだヨチヨチ歩きだった時のこと覚えています。お父さんによく似てらっしゃる」
当時、近所に住んでいて、食事の世話をしてくれた姉妹にも再会しました。
【米倉さん】
「当時4年生の時、一度お宅に連れて行っていただいて、食べ物いっぱい食べさせてくれて、すごくうれしかったんです。本当にありがとうございました」
【上杉孝代さん(88)】
「よう思い出しますね」
■「昔のことは全部楽しい思い出として…」
【米倉さん】
「この床尾山ね、あれが六甲山に似てるんですよ。向こうが神戸やと思って、毎日あれ見て泣いてた」
「戦争が原因で子どもの心が傷ついて、お互い傷つけあった仲間だと思います。もう70年たってますしね。昔のことは全部楽しい思い出として今は残っています」
戦争のために幼い心を傷つけあった子どもたち。70年の歳月を経て、再び出会いました。ようやく、胸の痛みを懐かしさに変えることができました。
(関西テレビ「ゆうがたLIVEワンダー」2015年7月28日放送より)