「きょう覚えたことは明日になると忘れてしまう」 テーラーの道を歩む記憶障害の元数学講師 「憧れの一着」を生み出す職人の世界 着る人の笑顔が仕事の喜びに 2022年10月20日
きょう覚えたことを明日になれば忘れてしまう。そんな“記憶できない”というハンディを抱えながら、新たな世界に飛び込んだ男性がいます。
そこは特別な一着を提供する職人「テーラー」の世界。技術と「仕事の喜び」を得る日々を追いました。
■減り続ける職人…技術途絶えさせないために 障害者を「テーラー」に NPOの活動
生地を厳選し、着る人の体に合わせて作られるオーダーメードスーツ。「憧れの一着」を生み出す職人の世界ですが…。
【大阪のテーラー】
「路面店でほんまのテーラーさんなんてほとんどない。安いものがいっぱいあるでしょう、既製品の服だったら」
安価な既製品の市場が拡大し、スーツを作る“テーラー”は、高齢化も進んで、その数は年々減っています。技術を途絶えさせないために、テーラーを一から育てる大阪府八尾市のNPO法人「テイラーズ・ギルド」。テーラーの卵として受け入れているのは、うつ病や発達障害などさまざまな障害がある人たちです。
【NPO法人テイラーズ・ギルド 森川仁雄理事長】
「障害がある人は、はなかなか仕事の選択肢がない。手に職がつく、技術が身につく作業所があまりないという問題がある。もしかすれば、縫製職人になりたいという人が来てくれるのではないかと」
独り立ちするまでには長い時間がかかりますが、ここでは、熟練の技術を持った職人たちの指導のもと、賃金をもらいながら修行をすることができます。
■記憶力に障害が…師匠に何回も教わりながら“テーラー”目指す男性
6年前から働いている五十嵐正和さん。記憶力に障害があります。
【五十嵐正和さん】
「前に教えてもらったことをまた教えてもらわなきゃいけないことは、何回もあります。だから先生には何回も同じことを質問したり聞いたりしています」
ベテラン職人に教わりながら作っているのは、自分用のパンツ。以前作ったジャケットと合わせて着ようと作業を進めていますが…
【ベテラン職人】
「あれ、違うやん」
【五十嵐正和さん】
「違います?」
【ベテラン職人】
「これ付けたらあかん」
【五十嵐正和さん】
「これじゃなかったでしたっけ」
忘れてしまう作り方。でも、そのたびに“師匠”が丁寧に教えます。教わったことを思い出せるように、地道な努力も欠かしません。
【五十嵐正和さん】
「ノートにびっちり書いてます。全部、どうやってやるっていうのを。書いてまとめて、これを見ながらやっています。やらないとね…次の日には忘れちゃうんです」
障害と向き合いながら、一人前のテーラーを目指す五十嵐さん。
■15年前過労で倒れる 失った数学講師の職 自殺考えるも…スーツ作りに出会う
記憶障害になったのは、15年前、予備校で数学の講師をしていた時でした。激務が続き、過労で倒れ、脳に障害が残ってしまい、簡単な計算すらできなくなってしまいました。
【五十嵐正和さん】
「『3+8、暗算でやってみ』って言われてできませんでした。えーって思ってね。ちょっと待って、あれあれって思って。涙が出ましたね。仕事辞めなあかんのかなと思いました。これからどうするんやろう思いました…どうやって食べていくんかなと思いました。先のこと考えたら『もう無理や』って思って、自殺をしようとしてしまったんです」
絶望していた中で出会ったのがスーツ作りでした。
【五十嵐正和さん】
「前よりきれいに作ろうとか、今度はもっと早くできるようになりたいとか、そういう欲も出てくるから、(作業場に)来ていてすごく楽しいです毎日」
3週間後…念願の上下そろったスーツを完成させました。試着した五十嵐さんは…
【五十嵐正和さん】
「結婚式みたいですね。初めてです。ウエストと肩がぴちっと合っているスーツを着るの」
“師匠”にも出来栄えをチェックしてもらいます。
【五十嵐さんの師匠 河添義高さん】
「いいと思う。上達したと思いますよ。五十嵐さんの頑張りです。根気よく、体の調子悪い時もあったけど、それを乗り超えて頑張ったと思います」
■初めて“人のために”スーツを お客さんの喜ぶ姿で仕事に意欲が
7月、テイラーズ・ギルドにお客さんが訪れました。大阪にある企業の社長がオーダーしたのは、会食の時に着る一張羅です。
【スーツをオーダーした客】
「年配の方とか立場が上の方とかとお会いした時に、不快感を与えず、かつちゃんとした格好でおもてなし・面会ができるよう華美ではない、きれいなスーツを着たい」
これまで、自分のスーツしか作ったことがない五十嵐さん。初めて、お客さんに販売するスーツの裏地の部分を作ることになりました。
【五十嵐正和さん】
「緊張します、お金を出して買う人がいますから。やっとお客さんのものを作らせてもらえるんだと思って嬉しかったです」
ひと針ひと針、慎重に。お客さんのことを思って縫い上げます。
【五十嵐正和さん】
「お金もらう仕事するようになってうれしいのは、喜んでくれるお客さんのことを、ちょっと想像するからなんです。『ありがとう』って言ってくれるのが給料だと思うから」
テイラーズ・ギルドが一丸となって挑むスーツ作り。職人たちに教わりながら、パーツごとに担当を分けて作っていきます。丹精込めて作られたパーツは職人がベテランの技でつなぎ合わせます。
スーツの受け渡しの日―。お客様にスーツをお渡しする五十嵐さん。
【五十嵐正和さん】
「お待たせいたしました。商品の方こちらになるのでご確認ください」
【スーツをオーダーした客】
「いいですね。すごく着心地が良くて、ふんわりした感じで。ここに名刺入れとか携帯入れるんですけど、しっかりしてます。きれいです」
【五十嵐正和さん】
「ありがとうございます」
【五十嵐正和さん】
「お客さんの喜んでくださる姿って一番の報酬です、うれしいです。障害者になって、人に喜んでいただける仕事をやる機会がなかった。これからも頑張ろうって意欲が湧いてきました。これからも一生懸命やっていきたいと思います」
手にした技術と、取り戻した仕事の喜び。着る人のことを思い浮かべながら、少しずつ前に進んでいきます。
(2022年10月18日放送)