終戦から77年 初めて向き合った故郷・ヒロシマ 21歳広島出身の大阪の大学生 きっかけはウクライナとロシアの戦争 戦争経験なくても「伝えていきたい」 広島と大阪で「証言」集めて…“戦争の記憶”つなぐ 2022年08月16日
太平洋戦争の終戦から今年で77年です。
「あの時の現実」を語ってくれる人が少なくなっていく中、広島と大阪で、戦争の記憶をつなごうとする21歳の大学生を取材しました。
■初めて向き合った故郷・ヒロシマ 「見えていたけど見えないふりをしていた」
広島市にある「御幸橋」。
原爆投下から3時間後に多くの被爆者が救護を求め集まっていた、77年前の状況を伝える写真が掲示されています。
【清水遥音さん(21)】
「何で気づかなかったんだろ、絶対視界に入っていたはずなのに」
大阪の大学に通う清水遥音さん(21)は、広島で生まれ育ちました。
自分が通っていた御幸橋に、原爆の記憶が刻まれていることを、この街にいた頃は知りませんでした。
8月6日、広島で行われた平和記念式典に参加しました。
今回が生まれて初めての参加でした。
「黙とう」
今は、一人でも多く戦争を経験した人に会って、自分のような若い世代とつなぐ、交流会を開こうと考えるようになりました。
【清水さん】
「今まで何もしてこなかったというのはありますね。きっと、見えていたけど、見えないふりをしていたのはありましたね…めんどくさいと思っていたし。やっぱり、ウクライナとロシアの戦争が始まって、昔こういうことが日本でも起きていたんだと、一気に自分ごとと捉えられるようになって」
■終戦前日の空襲で600人が犠牲に JR京橋駅前の「慰霊碑」 毎日、手を合わせる89歳男性
8月に訪れたのは、大阪のJR京橋駅前にある空襲の犠牲者の慰霊碑。
今も毎日、手を合わせに来る人がいます。
清水さんが慰霊碑の前で出会ったのは、照屋盛喜さん(89)です。
当時12歳だった照屋さんは、空襲の後、生き延びた人たちと一緒に、がれきに埋もれた犠牲者の遺体を空き地に運び続けました。
【照屋盛喜さん】
「爆弾で殺された人、その人の首やとか、手やとか、足とか、それを並べていくんよ。助けてくれなんて言う人は一人もおらへん。声を出せるような人は。みんな遺体や」
京橋駅周辺では、”終戦前日の空襲”で600人が亡くなったとされています。
【照屋さん】
「あの時の現実が頭に残っている人は、もうこの辺りでも、何人いう人間しか残っていない。これ、はいそうですか言うて、(記憶を)なくならせてしもても、ええもんかね?」
■大阪空襲で家族亡くし孤児に その後、親戚の家を転々と…88歳の美容師の女性
77年前に、大阪の街は度重なる空襲にあい、1万5000人に上る人が犠牲になりました。
空襲で家族を亡くし、孤児になった女性もいます。
【清水さん】
「こんにちは」
【吉田栄子さん(88)】
「はい、こんにちは。上がってください」
迎えてくれたのは、88歳の吉田栄子さん。
第一次大阪大空襲で、大阪市内にいた家族9人を亡くしました。
当時10歳だった吉田さんは、疎開していて生き延びました。
家族の写真は、たった1枚だけ残されています。
【吉田栄子さん(88)】
「(写真を撮った)この時に、今みたいになるとは夢にも思っていませんでした。(家族も)疎開してきていたら、私の人生も変わっていたと思うんですけど」
戦後、親戚の家を転々としながら育った吉田さん。
美容師になり、88歳になったいまも仕事を続けています。
【吉田さん】
「いま、ウクライナでああいう状態があって、私はニュースやら新聞読みながら、自分のことを振り返って、その当時のことを思い起こすんですね…それもつらいことで。もう、たまらなくなります。親がいないというつらさは当人にしか分からないつらさです。よその家でご飯を食べさせてもらうことが、どれだけ気を使うかと思いますよ」
清水さんは、吉田さんの経験を他の若い世代にも話してほしいと思いました。
【清水さん】
「証言会をやろうと思っているんです」
【吉田さん】
「えらいですね」
【清水さん】
「それで、吉田さんに来ていただけたらと思っているんですけど…」
【吉田さん】
「行かせていただきますよ」
【清水さん】
「大丈夫ですか!ありがとうございます」
大阪・豊中市の服部霊園の中に、吉田さんの家族の遺骨がおさめられた空襲犠牲者の慰霊塔があります。
【清水さん】
「写真を見せていただいたので、写っている(吉田さんの)ご家族の顔が浮かびました。決意表明をするんですけど、こういうところに来たら。風が吹いてきたのでちょうど、手を合わせているときに…頑張ってと言ってもらっているのかなって、都合よくとらえました。勝手に」
■1945年 広島に原爆投下 80歳の被爆者の証言「強烈な熱線と爆風…遺体はほとんど見当たりません」
広島に原爆が投下された1945年。
広島市では、14万人が亡くなったと推計されています。
しかし、実際の犠牲者の数は、今も分かっていません。
8月6日に広島平和記念公園内では、被爆体験の講演会が行われていました。
【被爆者・飯田國彦さん(80)】
「8月6日午後になって、だんだん炎が下火になりました。しかし、(爆心地付近では)遺体がほとんど見当たりません。強烈な熱線と爆風によって、瞬時に真っ黒な炭となり、吹き飛ばされて粉々になり、遺体は見当たりません」
講演を訪れた清水さんは、飯田さんに話を聞きに行きました。
飯田さんは3歳のときに、広島の母の実家で被爆。
一緒にいた母と姉は亡くなりました。
【飯田さん】
「(今も)思い出すのは、生き埋めになった時です。生き埋めになって、身動きがとれない状態で、『おかあちゃん助けて』と言おうとしても言えない」
「それから、『おかあちゃん助けて』という声が出るんです、突然。起きていて、こういう話をしているときに、突然、『おかあちゃん助けて』という声が出るんです」
「健康という日はないんです、被爆者には」
■きっかけは生後2週間で被爆した夫の死 被爆者の体験伝える…戦争経験のない72歳「伝承者」 そして、21歳の清水さんの“決意”
戦争を経験していなくても、被爆者の体験を伝える「伝承者」として活動を続ける人もいます。
その一人、72歳の佐々木佐久子さん。
伝承者になったのは、生後2週間で被爆した夫・怜さんが、ガンで亡くなったことがきっかけでした。
【佐々木佐久子さん(72)】
「55歳で原爆症が出て、64歳で亡くなったんですよね。それで、最後の1カ月はホスピスにいたけど、亡くなる3日前に『戦争がなければな』ということを言ったんですよ。その恐怖を考えて生きていたということを知らなかったので、私が。分かってあげられなかったなと、そのつらさが」
つづけて、
【佐々木さん】
「生まれて2週間の赤ちゃんにこういうものが背負わされたというところがね。これを伝えていかないと本当に夫がかわいそうだなと思って」
佐々木さんは、戦争の証言を伝えていこうとしている清水さんに、大事なことを教えてくれました。
【佐々木さん】
「(証言を伝えていく活動は)一人では難しい、もう一人見つけて。そこからなら広がる。2人でやってるならと。それでまた2人が4人と広がっていくから」
【清水さん】
「被爆者じゃなくても、他の人に話を伝えることができるし、誰かの心を動かすこともできるということを学んで…周りに被爆した人がいない人の視点も分かるので、そこも忘れずに、いろんな人に伝えていけたらいいなって」
もう、戦争からは目を背けないと決めています。
(2022年8月12日放送)