ロシア軍のウクライナ侵攻からおよそ3カ月。南東部の街・マリウポリはロシア軍が事実上制圧した。
物流の要衝として激戦が続いたこの街で、1人の女性が壮絶な出産をした。
■地下室での“出産” 支えたのはキーウの産婦人科医
3月末、マリウポリのとある集合住宅。
ロシア軍の攻撃が続く中、避難先として使われていた地下室で、ある女性が出産を間近にしていた。
しかし攻撃の危険がある中、救急隊はすぐに来ることができない。
そこで、たまたま同じ場所に避難していたビクトリアという24歳の女性が、お産を手伝うことになった。
ビクトリアはSNS「テレグラム」で出産をサポートしてくれる医師を求めた。
つながったのは、600キロ以上離れたキーウにいる産婦人科医・ミコライだった。
■壮絶な避難現場 医師は指示を出し続けた
取材班は5月12日、ミコライ医師にリモートインタビューを行って、ビクトリアとのチャット全文を提供してもらった。
2人のやりとりは、このような内容から始まった。(一部省略)
<3月22日午後10時01分>
【ミコライ医師】
「医者も看護師もいない?」
【ビクトリア】
「残念ながら妊婦と2人で地下から出られない。避難のホットラインから朝まで待つよう言われた。砲撃が続いているうちは私たちを助けられないようだ。彼女がますます調子が悪くなっている」
ビクトリアが医師に伝えた内容からは、避難所の壮絶な様子が伝わってくる。
食料は尽き、3日間何も口にできておらず、水はあと1リットルしかないという。地下室の衛生状態は悪く、当然お産に必要な器具もない。
キーウの病院で普段は妊婦の診察を担当し、お産を取り上げることはないミコライ医師だが、ビクトリアに次々と指示を出した。
【ミコライ医師】
「妊婦にアルコールが必要だ。子宮を落ち着かせる。朝まで妊婦が耐えられなかったら100~150ミリグラムのウォッカを与えて」
【ビクトリア】
「朝まで耐えられないことなんてあるの?」
【ミコライ医師】
「いろんなことがあり得る。赤ちゃんを包めるものと、へその緒を結ぶものを準備して」
ミコライ医師はへその緒を2カ所結ぶ必要があることを伝え、結ぶべき位置を伝える。
【ビクトリア】
「彼女の恐怖を抑えることができないし、そんな経験がない。彼女1人でなんとかできないの?」
【ミコライ医師】
「彼女は1人で何もできない。靴のひもで結ぶことができる。ナイフやハサミがない場合、へその緒をガラスで切れる。ひもがなかったらニットの帽子や他のものを解いて」
指示を出す間にも、妊婦の出産は近づいていた。
【ビクトリア】
「妊婦は泣きながら『痛い、中から引き裂かれる』と叫んでいる。私は我慢するよう頼んでいる」
【ミコライ医師】
「破水はまだ? 救助者に自分のことと今日の状況については知らせた?」
【ビクトリア】
「たくさん電話をした。もっと我慢するよう頼まれた。彼女はいつも叫んでいて大騒ぎしている」
■お産は難航 “逆子”の状態に…
夜から続いていたやりとりは日をまたぎ、朝を迎えた。状況は極めて悪く、妊婦は早産だった。
しかしさらに事態は悪くなる。ビクトリアはミコライ医師にこう伝えた。
<3月23日午前7時13分>
【ビクトリア】
「問題がある。頭じゃなくてお尻が突き出てつっかえている」
逆子の状態に陥ったのだ。ミコライ医師は緊急性が著しく高いと判断し、何度も電話を掛けるがビクトリアは出ない。
はっきりとした理由は分からないが、電話に出ることができないという。
【ミコライ医師】
「産道を広げるために手を赤ちゃんのお尻に添えて。腰まで産めば赤ちゃんの体を両手で抱き、母親のおなかに背を向けながらちょっと引っ張って」
【ビクトリア】
「今引っ張らない方がいい? 赤ちゃんがつっかえていて、彼女は『引き裂かれそう』と叫んでいる」
叫び続ける妊婦を前にビクトリアは懸命に指示に従うが、事態はさらに悪い方向に進む。
【ビクトリア】
「足がぶら下がっているが、彼女の意識がなくなった」
赤ちゃんは横向きのまま足から出てきたが、肩でつっかえたまま、妊婦が意識を失ってしまったのだ。
ミコライ医師は一刻も早く赤ちゃんをおなかから出そうと指示を出す。
【ミコライ医師】
「足を上に引っ張ってみて」
【ビクトリア】
「肩がつっかえている」
【ミコライ医師】
「大事なのはおなかじゃなくて背中を上に向かせること。下の手を出してみて」
【ビクトリア】
「手を出した」
【ミコライ医師】
「偉い」
ミコライ医師は、チャットで医学書の写真を送りながら説明した。
【ミコライ医師】
「赤ちゃんの背中をお母さんのおなかに向かせながら引っ張って。気をつけて、ゆっくり。頭が出るはず。赤ちゃんは未熟児、強く引っ張ってはいけない」
【ビクトリア】
「できた」
赤ちゃんは無事に出産できたが、母親の意識がまだ戻らない。出血も大量だという。
【ミコライ医師】
「へその緒を切った? 2つの結びの間で」
【ビクトリア】
「まだ」
【ミコライ医師】
「二カ所で結んでその間で切って。その後へその緒をゆっくり引っ張って膝で母親のおなかの下に押して」
ビクトリアは懸命にミコライ医師の指示を守り対応した。
へその緒の処理や母親の出血の手当てを懸命に続けると、ようやく母親の意識が戻った。
<3月23日午前8時4分>
【ミコライ医師】
「君は偉くて勇気のある女性だ」
■「ヒーローは彼女だ」
壮絶な現場の様子に、どのような気持ちで対応していたのか。ミコライ医師に聞いた。
【ミコライ医師】
「医療の知識も出産の知識もない人にどう説明すればいいのかが本当に難しかった。こういう事件は初めて。緊急事態で難しい出産だった。でもヒーローは彼女。指示に従ってすべてやってくれた。彼女がいなければひどいことになっていた」
2人の命を救ったビクトリアだったが、実は彼女自身も当時、砲撃の被害に遭い、けがをしていたという。
その後、無事避難し入院したビクトリアからミコライ医師にメッセージが送られてきた。
入院中の妊婦から送られてきたものと思われる、赤ちゃんの小さな手が写った写真だった。
<3月26日>
【ビクトリア】
「赤ちゃんが生きている。母親は重篤だが生きている」
【ミコライ医師】
「君が2人を救った。君が隣にいなければ死んでいただろう。君は英雄だ」
【ビクトリア】
「あなたの指示がなかったら1人で何もできなかった。あなたは脳で、私はただの手だった」
【ミコライ医師】
「自分を誇りに思うべきだよ」
ミコライ医師は今もSNSで妊婦の相談に答え続け、軍事侵攻開始から300人以上とやりとりをしたという。
戦争が終わってもオンラインでの相談には答え続けたいと話した。
絶望の街・マリウポリの地下室で明けた、壮絶な一夜。
小さな命の誕生はつかの間の希望を与えたが、当たり前の命が守られる現実にはまだ程遠い。