東日本大震災の発生から11年。
福島第一原発で起きた事故のあと、地元から遠く離れた場所で今も葛藤を抱えながら”避難生活”を続ける人たちがいる。
【小林茉莉子さん】
「震災の経験とか原発事故で引っ越したことは、私にとって後ろめたいことではない。自分の11年は人生のアイデンティティを育んでいく11年だった」
■福島市から京都へ 11年は私にとって青春の全て
京都府宇治市に住む同志社女子大学3年の小林茉莉子さん(21)。
小林さんは震災当時、小学4年の10歳だった。
福島県福島市の自宅に家族で住み、原発事故の避難区域には入っていなかったが、学校では運動場で遊ぶことが禁止され、放課後にクラスメートと外で走り回ることもできなかった。
家族で話し合い、震災から約半年後、福島に父を残して母と2人で京都市の合同宿舎に身を寄せた。
【小林茉莉子さん】
「住んでいた福島と京都で文化や言葉も全然違って圧倒された。それでも、転校初日に運動会のために50m走のタイムを運動場で測定した時、外に普通に出て、砂埃が舞っているのにビクビクしなくて。ちゃんと息が吸える開放感と運動場を走れていることに感動したのを覚えています」
避難者が多く住む地域だったこともあり、京都の学校でも友達とすぐに仲良くなることができた。
中学校では吹奏楽部に所属し、高校時代にはボランティア活動にも力を入れた。
京都に避難してから「生きてこられたのは色んな人の支援のおかげ」という思いが強くなり、子供の居場所支援のチャリティー活動などに実行委員として積極的に参加した。
【小林茉莉子さん】
「小学校から大学まで、部活動や勉強を通して“普通”の学生生活を送れた。11年は私にとって青春のすべてなんです」
■「私の故郷はどっち」うまく伝えられないルーツ
大学では2年間、演劇サークルに所属した。同級生や新入生に自己紹介をする場面が増えた。
周りの友人が出身地をすらすらと答える中、小林さんは自分のルーツをうまく伝えられなかった。
【小林茉莉子さん】
「京都には人生の半分以上住んでいる。ただ私の中では福島に父も祖父母も親戚も家も残しているので、私の故郷はどっちなんだろうと思いました」
ーーQ:小林さんは何と答えているのですか?
「時間があるときは自分の経緯を話すけれど、パッと答えるときは『京都』と言っちゃいます。小学校から高校まで京都にいて、ずっと京都に住んでいるから京都と伝えた方がわかりやすいのかなと。でも『京都』と答えてから、心の中では『やっぱり私は福島だ…』と心の中にモヤモヤが生まれて、『福島』の単語が大きくなっていく。この気持ちは一生消えないのかな」
■悩みは就職「帰る場所がない」
ことし、福島で過ごした期間よりも京都での生活の方が長くなった。
大学3年の冬から就職活動が始まり、将来について考えることが増えた中で、小林さんには今、大きな悩みがある。
就職する地域をどう選んでいくかだ。
【小林茉莉子さん】
「まだ福島に帰る気持ちはなくて。でも京都・関西にずっといる理由もない。自由と言ったら自由だけれど、帰る場所がない。自分の中で“ここだ”という場所がないなと」
ーーQ:福島に戻らない理由は?
「私が大学を卒業したら、母は高齢の祖父母の近くに住むため福島に帰ると言っている。でも私は健康上の理由で戻る気にはならない。福島県でも人が普通に生活しているけれど、土とか物の汚染が残っていて、もう一度健康の不安を抱え続けるのが嫌なんです」
■1歩ずつ歩み始める
「社会に恩返しがしたい」
そう言葉を繰り返す小林さんは、自分の震災経験を話すことから1歩ずつ進み始めた。
【小林茉莉子さん】
「15年、20年と経てば、今以上に世間の記憶は消えていって、原発の避難者がいることも忘れ去られようとするのかな。私のように放射能で子供時代を奪われた人がこれから誰一人生まれてきてほしくない。私の経験が何か社会の人にとって抑止力のようなものになれば」
11年の避難生活を振り返りながら、時折笑顔を見せる小林さんは「しんどい気持ちが思い出せない」と話した。
ただ、言葉の節々には葛藤が垣間見えた。
青春時代が「充実した」と、素直に言えない思いをしてきた子供たちがいることを忘れてはいけない。
(関西テレビ放送報道センター記者 鈴村菜央)