27年前、阪神淡路大震災で壁などに18時間もの間はさまれ右足に障害が残った男性。語ったのは、「たくさんの人が亡くなられている中で声をあげてって言われても難しい」という言葉でした。
周りに自分の痛みを話すことのできない「震災障害者」の27年です。
■右のお尻の筋肉が「壊死」右足には障害が残る
81歳の岡田一男(おかだかずお)さん。27年前、神戸市東灘区の自宅で、阪神淡路大震災の被害に遭いました。
【岡田一男さん】
「地震やと思って、立ち上がろうと、こたつに手をついて立ち上がった瞬間に下からドーンと」
当時、こたつにいた岡田さんは、揺れを感じ、とっさに立ち上がろうとしましたが、後ろから倒れてきた壁と、こたつに挟まれ、体が折り曲げられた状態で18時間過ごしました。
長時間押さえつけられた結果、右のお尻の筋肉が「壊死」。さらに神経の伝達機能がうまく働かなくなり右足には障害が残りました。
今でも足を固定しないとうまく歩けません。震災が原因で障害を負った「震災障害者」です。
【岡田一男さん】
「痛みじゃなくて感覚が全然違う。足の裏も感覚異常で、地面を踏んでいる感じがない」
「自分の体も生活も震災で全部変わってしまったからね」
長期に渡る入院治療。経営していた喫茶店は全壊しました。
■見落とされた震災障害者 少なくとも2000人か
兵庫県と神戸市は震災から16年後、身体障害者手帳の原因欄に「1.17」「震災」との記載がある人を調査し、349人が「震災障害者」であると発表しました。
しかし、医師が「震災が原因」と診断書に書かなかったり、震災後、県外に引っ越したりした人などは含まれていません。重傷者が1万683人にのぼった震災で、少なくとも2000人の震災障害者が見落とされているといわれています。
岡田さんの障害者認定は「4級」。症状が比較的軽いとされる判断です。
災害で国から見舞金が出るのは、両目を失明するなどの「1級相当」のみで、岡田さんは補償を受けていません。
【岡田一男さん】
「声をあげてって言われても難しい。あれだけたくさんの方が亡くなられている中で。けがをしてるということを言ったら、助かっただけでよかったやんとか、そういうことを言われたこともあったし」
■痛みを話せる場を…始めた「震災障害者と家族の集い」
同じ境遇の人と思いを共有できる場所がほしい。そんな思いから、岡田さんは震災から11年後、被災者の話を聞く「よろず相談室」を運営する牧秀一さんとともに「震災障害者と家族の集い」を始めました。
【牧秀一さん】
「きっかけは岡田さんの言葉やね。『重たい荷物を背負っています』と。『薄紙をはがすように軽くしていきたい。そんな場所がほしい』と」
「集い」を始めてから牧さんは、周囲に自分の痛みを話すことのできない震災障害者の多さに気が付いたといいます。
【牧秀一さん】
「息子が亡くなってね、片足切断したお母さんがいた。その人が来たのが15年目。震災から。その人は最初暗かった。なぜかというと、それまでに15年間笑ってはいけない、息子が死んでる、私は生き残ったと。笑ってはいけない、おいしいものを食べてはいけないと自分に課していた」
牧さんは「震災障害者」の数を国が把握し、支援策を検討するべきだと考えています。しかし、政府は、令和元年の国会答弁で「災害が原因で障害を負った人の人数などを国として把握する必要はない」としています。
【牧秀一さん】
「ちょっとしたら変えられる状況なのに、放置して無視すれば切実に訴えていった人が死んでいく。新たな災害が起きた時にまたそういう人が出てくる。現実そうなると思うから、ちゃんと訴えていきたいなと思う」
■「高校生活」も送る 懸命に前を向く日々
震災は日常に影を落としました。それでも懸命に前を向こうとしています。
岡田さんは今、「高校生活」を送っています。
【岡田さんの担任 山崎雅子さん】
「数学もね、ちょっと苦労されましたけど、あともう1回のテストを乗り越えたら大丈夫ですからね。来年数学とってないんですよ。」
【岡田さん】
「よかった」
【岡田さんの担任 山崎雅子さん】
「ホームルームでも一番前で、話を聞いてくださるので。それを後ろのほうに座っている若い子たちが必ず目に入っているはずなんですね。そういう姿を刺激として感じてくれてると思います」
中学卒業後、就職した岡田さん。通信高校にも入学しましたが、仕事が忙しく続けられませんでした。
いつかまた勉強したいと、当時の学生証をずっと大切に持ち歩いていました。
岡田さんは、学校では写真部に所属しています。
【岡田一男さん】
「自分が動けないんで。まあ写真ぐらいは撮れるだろうと。(学生生活は)けっこう楽しい」
「よろず相談室」での活動も続いています。震災から27年を前に、「震災障害者とその家族」そして東日本大震災で被災し、「県外に避難をしてきた人」が集まり、ここまでの道のりを語り合いました。
【娘が高次脳機能障害を負った城戸美智子さん】
「私たち26年、27年たってしまいましたけど、本当に重い経験を積んできました。それぞれが違った意味で重い26年を過ごしてきました。(震災障害者は)忘れられた存在、忘れられたということは声を大にして言いたいと思います」
【東日本大震災で避難してきた 澤田穂咲さん】
「当時小学校4年生。20歳を過ぎて(震災と)向き合えるようになった。周りの人たちから大丈夫?だったり、どうだった?であったり、内容を聞かれたくなかった」
死者の陰で忘れられてきた「震災障害者」。
【岡田一男さん】
「負けるもんかという気持ちがあった。なんか役目があるんやろうと」
あの日から27年。いま、その存在に向き合う時がきています。
(関西テレビ「報道ランナー」2022年1月13日放送)