JR福知山線脱線事故からまもなく16年です。
新型コロナウイルスの影響で、講演会などが軒並み中止となるなか、事故で重傷を負った男性がインターネットを使って今の思いを配信しました。
若い世代に伝える、16年の歩みです。
4月インターネットで配信されたJR福知山線脱線事故の「講演会」。
講師の1人、小椋聡さんです。
【小椋聡さん】
「その日はたまたま座れたので2両目の後ろの進行方向向かって右側の椅子に座ってたんです。家族全体で事故にどう向き合うかにすごい長い時間かかった」
2005年4月25日に起きたJR福知山線脱線事故。
乗客106人が死亡し、562人が重軽傷を負いました。
当時35歳だった小椋さんは、西宮の自宅から大阪の会社に向かう途中で事故に遭いました。
最も多くの人が犠牲になった2両目に乗り、右足の骨を折る重傷を負いました。
【小椋聡さん】
「僕らが前の方に向かって飛んで行った。前の方でたくさんの人が山積みになってるところに後ろから僕が飛んで行った。見ている前でたくさんの方がなくなった。その中に彼女がいたんですよ」
――Q:覚えてらっしゃいますか?
【二両目に乗っていた・浅野千通子さん】
「はい覚えてます」
【小椋聡さん】
「僕に助けてくださいと声をかけてくれたんですけど、この子は助からないと思った、どうすることもできなくて。助けてあげられなかったということが自分の中に残っていた」
事故から2年が経ったころ、事故直後の2両目の状況を伝えたいと模型を作りました。
【小椋聡さん】
「僕がいたのはちょうど折れ曲がった角なんです。頭に血がついてるこの人。これが僕なんです。僕がすごく印象に残っているのは車内のポール、格子状の網だったり、割けた壁とかああいうものが人の山の中にいっぱい突き刺さってた。途中までは静かだったんですけど皆意識取り戻した時に動き始めますよね、時に痛い痛い、動かないでってあちこちから聞こえてきて。僕が思うに多くの方は窒息だったと思う。途中までは生きてたんです。どうすることもできずに息が吸えなくなって亡くなっていった状態、即死じゃなかった」
事故から16年間、講演会などを通して目の当たりした事故の姿を伝え続けてきた小椋さん。
負傷者として背負ってきた「役割」があると考えています。
【小椋聡さん】
「一生懸命夢を追いかけて自分の将来をつかみ取ろうと考えている人たちが全く理由なく偶然そこにいただけで亡くなっていく。そういうすごい理不尽、不条理。そういう姿が福知山線の脱線事故。いったん事故が起こるとどんな形で人が死んでいくのか僕は知っておくべきだと思う。それがあるから事故は二度と起こしてはいけないと根本的なところにそこを知っておく必要があると思います。それができるのは乗ってた人間。僕らでしか喋れない」
事故は、妻の朋子さんにも深い傷を残しました。
朋子さんは、小椋さんとともに事故と向き合うなかで、「双極性障害(そうきょくせいしょうがい)」という心の病を発症したのです。
【小椋聡さん】
「まさに青天の霹靂でしたよね。すごく明るい人だったので。心の病気になるなんて思ってもみなかった、まして電車に乗ってなかった立場なので」
朋子さんは、一時体重が30キロ台にまで落ちました。
――妻を自宅で一人にしたら死んでしまうかもしれない。
小椋さんは勤めていたデザイン関係の会社を辞めました。
今は、療養などのため西宮から多可町に引っ越し、自宅でデザインの仕事を続けています。
朋子さんの病状は次第に落ち着いてきましたが、それでも、まだ、不安定な心を抱える日々が続いています。
【小椋聡さん】
「彼女が普通に毎日いるということは当たり前じゃないんですよ、そう思えるのは事故に遭ったからだと思いますし、目の前で亡くした方を思って泣いている人たちを見てきたからだと思うんですよね。どういう状況であれ一緒に過ごせているのでそれでいいじゃないかと思いますし」
自分の経験がいつか誰かの役に立ってほしい。
新型コロナウイルスの影響で講演会が軒並み中止になるなかでも、小椋さんは、葛藤しながら歩んだ16年間を、ありのまま伝えました。
【小椋聡さん】
「福知山線の事故の話をしてるから若い人たちが分からないってことになりますけど、10、20年後になって南海トラフ来たら真っただ中にいるんですよ多分。同じように人が死んで行ったり、困難に直面した人に向き合うと思うんです違う形で。その時に人の命であったりとか夫婦で生きていくということをこんなふうに言ってはったかなっていうのを、思い出して頂くきっかけがもしあれば福知山線の事故の経験が十分に生かされているのかなと思います」