田園地帯と住宅地が広がる滋賀県東近江市。
戦時中には、「陸軍八日市飛行場」という巨大な軍の飛行場がありました。
コンクリート製の掩体壕がひっそりと残っています。
掩体壕は、空襲から、残り少ない飛行機を守るため、戦況が悪化した1944年から作られました。
幅36m、奥行き22m、高さは7m。未完成のまま終戦を迎えたため、内部には土が積まれたままです。
補修されることなく、老朽化の一途をたどっています。
【東近江 戦争遺跡の会 中島伸男さん(85)】
「7~8年前のこと。ひび割れが入っていたが、砕けてしまった」
この町で空襲を経験した中島伸男さん(85)は、「八日市飛行場」の歴史を語り継ぐ活動を続けています。
【東近江 戦争遺跡の会 中島伸男さん(85)】
「掩体壕がなかったら、写真見せても、こんなんがあったんだよって言っても。初めて来たときに与える衝撃・印象が全く違います」
八日市飛行場は1922年(大正11年)に、陸軍の飛行場として開設。200機を超える軍用機が配備されていたといわれています。
戦況が悪化すると、八日市飛行場は、南方へ向かう特攻隊の燃料補給や整備の中継基地となり、多くの若者が、この地から飛び立ってゆきました。
【東近江 戦争遺跡の会 中島伸男さん(85)】
「その時のことを知っている人間は少なくなっていくわけですが、モノが残っていることでいろんな方がしゃべられた話が活きてくる。後の世代の人たちに言い継がれていく」
かつて、飛行場の周辺には土製や木製のものも含めて、17の掩体壕が存在していたことが分かっています。
コンクリート製の掩体壕は2つ現存していますが、保存には一筋縄ではいかない複雑な事情があります。
【掩体壕の土地所有者 武村勘一さん(88)】
「僕は建設中から、造っているのも見ているし、家がそこやから」
飛行場から100mの場所に住んでいた武村勘一さん(88)。
陸軍が武村さんの「私有地」に「勝手に」掩体壕を建設しました。
【掩体壕の土地所有者 武村勘一さん(88)】
「えらい戦争の遺物やなと。許可なしでやったことやから陸軍が。もとに戻してほしいのが基本」
この他にも陸軍が作った17基の「掩体壕」は全て、私有地に許可を得ずに作ったものでした。土地の所有者は100人以上にもおよび、特定が難しいものもあるのが現実です。
――Q:国に対して「掩体壕をどうしてくれるんだ」という具体的な話は?
【掩体壕の土地所有者 武村勘一さん(88)】
「何回もしてますよ、それは。財務局も行ったり。「何も動かなかった。保存するなら、保存するで協力しますよ。何もほったらかしっていう意味やから。撤去してくれと。まだ戦争は終わっていない」
保存か…撤去か… 難しい問題です。
(武村)
「これが終了するまではまだ終わってない」
(中島)
「終了ってどういうこと?」
(武村)
「終了というか、結末というか尻がふけてない」
(中島)
「武村さんは、これを撤去してくれということ?」
(武村)
「基本的には外せないわ 中島さんと立場がちがう。戦争を風化させたくないという考え方は一致している。ただ、地主のぶんだけが違う」
75年がたった今、戦争の記憶が刻まれた痕がひっそりとたたずんでいます。