【浅野千通子さん】
「あの日はすっごくいい天気で、とても気持ち良かった。電車に揺られて気持ちいいなって…」
去年11月、JR東日本・高崎支社が開いた社員研修。
講演を行う浅野千通子さんは、15年前、通勤でたまたまバスが遅れたため、たまたまあの列車に乗り、席が空いていた2両目に座りました。
午前9時18分、尼崎駅の近くで列車が脱線。
くの字にへし曲がった2両目の中で、浅野さんは積み重なる人の下敷きになってしまったのです。
【浅野千通子さん】
「目の前に多分若い青年のような方が一緒に挟まっていた。『動かんといて、あんたがいま動いたら私がしぬから』って叫んだんですね。でも彼の力がものすごく強くて、もう息もできない。声も出ない」
「“もう死んでしまうんだな”そう思ったらふっと彼の力が抜けた」
「『あ、彼死んだんだな』っていうのが分かりました。その時私は『よかった、また息できるから、よかった』っていうふうに、そういう風に思ったんですね。目の前で人が死んでいくのによかったって。自分のことしか考えられなかった。そのことは、後々になってずっと私の中で苦しみとして残り続けました」
静まり返る会場には、運転士や車掌ら約300人。
浅野さんがこの場に立つまでの道のりは、とても長く険しいものでした。
全身14カ所を骨折、PTSDにも
これは、事故当日の浅野さんのレントゲン写真です。
右の太ももの骨がめり込み、骨盤が割れ、左足は折れた骨がスネから飛び出していました。
骨折は全身14か所に。
一時は、「元通り歩けないかもしれない」と医師から言われました。
(事故当時の日記より)
「事故のことを考えない。いらだたない。泣かない。JRのおじさんには会ってない。会いたくないから。JRなんて今はどうでもいい。ただの怪物。」
その後、7回の手術とリハビリを経て、事故から3年たったころには、奇跡的に小走りが出来るまでに回復していました。
しかし、その矢先に襲ったのは、重度のうつ病とPTSDでした。
【浅野千通子さん】
「極限まで死に近づいた肉体が回復すれば、私は元に戻れるんだって思っていた」
精神科の入退院を繰り返し、最終的には“双極性障害”と診断されました。
心と体、両方の傷と闘い続けて十数年。
結婚して子供も生まれ、状態も少しずつ良くなってきた頃に、浅野さんの中に、ある“感情”が芽生えたといいます。
『命を運ぶ仕事をする人に伝えたい」
【浅野千通子さん】
「目の前で無邪気に遊んでいる子どもを見て、私この子に見せる背中が無いなって。その時に自分のなかに湧いてきたのは、いつか、皆さんのように命を運ぶ、そういう仕事をしている方々に私の話が出来る日が来るといいな、そんな自分になれるといいなって。だから今、こういう日が来たこと本当に心から感激しているし、生きてて良かったな、色々あったけど本当に生きてて良かったな、ってすごくそう思う」
命を運ぶ仕事をする人に伝えたいー
その思いで講演を行う決心をした浅野さんのもとに、事故の当事者であるJR西日本からも協力の依頼が来たのです。
【浅野千通子さん】
「私がずっと思っていたのは、JR西日本の安全ていうのが、“あのような事故を二度と起こさないために、安全でいなければならない”とか、“あんな事故をまた起こしたら大変なことになる”っていう恐怖があって、その恐怖に打ち勝つための安全、みたいな感じがしていた」
「恐怖をベースにした安全じゃなくて、もっと私だったら、自分の車に乗せてる息子の命を守りたいから、安全でいたいなとかっていう、もっと“愛をベースにした安全”っていうのが浸透したらもっといいなと思って」
安全の本質は「愛」
自分の人生を大きく変えた当事者に伝えたい“安全の本質”。
今年1月、緊張しながらも、静かに語り掛けました。
【浅野千通子さん】
「私たちの人生って、いつも死と隣り合わせだと言えると思います。悲しいかな、事故がゼロになることもないと思います。だからこそ、他人ごとではなく、自分の内側で起こっていることとして、自分の大切な人の命と重ね合わせて真剣に向き合ってみる。そうすることで、安全の本質が愛であると気付く、スタートラインに立つことが出来ると思うんですね」
講演会の後、浅野さんのもとには、参加した約100人全員から感想文が届きました。
(感想文より)
『私どもは、逆に強くなけれないけない、勝たなければいけない、という雰囲気が強いのかもしれません』
『大切な家族がいるからこそ、本日お話頂いた「愛から生まれる安全」というものがすごく心に響きました』
【浅野千通子さん】
「私たちは“分かって欲しい、でも分かってもらえない”というところで(被害者とJR西日本は)お互いに苦しんできた。分かりたくても分かれない西日本に、被害者の分かってほしいけど、分かってもらえない部分をうまく伝えることが出来たら、何かできることにつながるんじゃないかな」
事故から15年、被害者と加害者という関係を超えて、浅野さんは歩み始めました。