忘れられない被災地の光景
阪神淡路大震災から25年。私は当時、報道記者になる前で他の部署でカメラマンをしていました。報道への社内応援という形で、神戸に入ったのは発災から3日目。避難所となっていた東灘区の御影公会堂で中継を担当しました。現場へ向かう車窓から見た被災地神戸の街並みは今でも忘れることができません。
現場周辺は多くの家屋が倒壊していて、避難所には人があふれていました。最初に驚いたのがトイレ。水が流れないので、糞尿が山積みの状態でした。当時はまだ、支援物資もあまり届かず、わずかばかりの食料を分け合いながら、厳しい寒さのなか肩を寄せ合い過ごされていました。
私は中継スタッフの中で一番若かったので中継車で寝泊まりしながら、カメラマンとして随時生中継に対応していました。この中継の効果なのか、5日目あたりから急に支援物資が届くようになり、私も空いている時間は避難者のみなさんといっしょにトラックで運ばれてくる物資の荷下ろしを手伝ったりしました。震災の翌年報道記者になり、主に次の地震に備える「防災」を担当してきました。
被災地で歌い継がれる「しあわせ運べるように」
毎年、夕方のニュース番組で1月17日の被災地の様子を伝え続けています。被災地の一日、地震が発生した5時46分から、被災者の声、変わりゆく街並みを、あまりナレーションを入れずに1本のVTRにまとめています。そのなかで、必ず使われる歌「しあわせ運べるように」があります。神戸市で音楽を教えている小学校の先生、臼井真さんが作詞作曲した歌です。
地震にも 負けない 強い心をもって
亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
支えあう心と 明日への 希望を胸に
響きわたれ ぼくたちの歌
生まれ変わる 神戸のまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
臼井先生は、この歌を子どもたちに教えるときに、被災した神戸の映像や画像を見せながら、当時の様子を伝えてきました。この歌は、東日本大震災や中国・四川、熊本の被災地で歌詞を変えながら歌い継がれてきました。2020年4月からは小学校の音楽の教科書にも載ることになりました。
震災の記憶を伝える「歌の力」
25年が経ち、人々の記憶も薄れるなかで、震災が徐々に風化しているのは事実です。しかし、「しあわせ運べるように」が子どもたちによって被災地や全国で歌い続けられる限り、この歌が震災の記憶を伝えてくれる。将来、震災を語り継ぐ人がいなくなり、報道を目にすることがなくなったとしても、歌が伝え続ける、この歌にはそんな力があるような気がしています。
カンテレ「報道ランナー」 神崎博 報道デスク