国の隔離政策によってハンセン病元患者の家族が受けた被害への補償が、11月に大きく動きました。
問題があきらかになってから、約20年。
歴史が大きく動くなか、患者と家族の現状、そして補償制度の本当の意義を考えます。
療養所で生きる元患者男性
11月26日、ハンセン病元患者の家族が、安倍総理大臣と面会しました。
今年、ハンセン病の問題が大きく動いた一年でした。
関西テレビが、岡山の島のなかにあるハンセン病療養所で取材を始めたのは9年前。
長期の取材に応じてくれたのは金地慶四郎さんでした。
この時すでに、69年も療養所で暮らしていました。
ここに来たのは16歳の時でした。
【金地慶四郎さん】
「町を歩いていても、同級生たちが、特に女の子は敏感で、私の顔を見たら白いハンカチで口ふたして、横道に走って逃げていく」
ごそごそと、服を顔に近づけながら着替える慶四郎さん。感覚の残っている唇で、その形を確かめながら着替えています。
慶四郎さんには視力の障害と手や足に知覚麻痺などがあります。薬のない時代に症状が進み、後遺症が残りました。
ハンセン病はかつて「らい病」と呼ばれていました。
ライ菌による感染症で、感覚麻痺や、運動障害などを起こす病。有効な治療薬のない時代は、顔や手など、見える場所が変形し、嫌われました。
昭和になり、国は全てのハンセン病患者を隔離する「癩予防法」を作ります。島などへ強制的に収容し、ハンセン病を根絶しようとしました。患者の発見は、密告によるものも多く人々は、家族に対してまでも差別をするようになりました。
家族との断絶…元患者が抱く思い
慶四郎さん、心につかえているのは、家族との関係です。
父親の葬式すら知らされず、仲の良かった兄とも一度もあっていません。
【金地慶四郎さん】
「10年くらい前でしたかね、妹とは他の事情があって電話で話したりしていましたが、妹が三男の番号を教えてくれて、電話をかけたら迷惑そうな応答やったね。弟がいるという事は家族の誰にも言っていないから分かったら困る、と」
療養所で暮らす人の多くが、家族と断絶しています。
そうした人のために、療養所には納骨堂があります。
慶四郎さんにとっても死後のことは、深い悩みでした。
葬式など繊細な問題を確認するのは、ソーシャルワーカーの仕事です。
【金地慶四郎さん】
「いつどうなるか分からないから。葬式もこっちでしまして、お骨も光明園の納骨堂に納めましたと。妹に負担を掛けないようにしたらいいと思って」
【国立療養所邑久光明園 ソーシャルワーカー 坂手悦子さん】
「妹さんには、葬儀も終わってお骨もこうしますという連絡でいいということやな」
【慶四郎さん】
「葬式も…済んでから連絡してもええわな、葬式も。その前にするんかな、やっぱし」
【坂手さん】
「その時の事は想像したくないけど、でも調子が悪い時に、私も連絡したいと思うかもしれないな」
【慶四郎さん】
「そうやな。連絡してもらってもいいけど、来なくてもいいと。ここで十分面倒見てもらって、来てもらわなくても天国へ行きますから…と言うてな」
放置されてきた「人生被害」
ハンセン病をめぐっては、2001年に元患者が起こした国賠訴訟判決がありました。
この裁判を経て、国の隔離政策は不必要で誤ったものだったことが明らかになりました。当時の小泉総理大臣も謝罪。元患者への補償などが行われました。
しかし、家族の問題は取り残されたのです。
ソーシャルワーカーの坂手さん、元患者と家族の状況について11月、大阪のお寺で話をしました。
【国立療養所邑久光明園 ソーシャルワーカー坂手さん】
「国賠訴訟の後、国から補償金がおりました。当時、まだまだご家族に連絡の取れない人がたくさんいらっしゃって、電話したら驚きながらも手土産を沢山もって駆けつけてくれたご家族もいらっしゃいましたし、またはっきりと『裁判で勝ったからといって家に戻ってくるなんていわないように強く言ってください』と、『そこにおってもらわないと困るんだ、もう絶対に連絡しないでほしい』とはっきり言われたこともあります」
坂手さんは集まった人達を前に、語り続けます。
「ただ、長年、入所者の方やご家族と関わってきて思うのは、絶縁状態にあったとしても、入所者の方は家族のことを思い続けているし、ご家族もまた入所者のことを思い続けているという事です。さっき電話をした時に電話をガシャンと切られたという話をしましたが、きっと電話の向こうで、罪悪感で苦しんでいらっしゃるんじゃないかなと思うんです。家族も入所者の方と同じように被害者である…」
そして今年、判決が出たのが、元患者の家族による裁判でした。
裁判所は「国のハンセン病隔離政策が家族への差別被害を生んだ」として国の責任を認め、賠償を命じたのです。
『家族が差別を受ける地位に置かれ、家族関係の形成を妨げられる損害があった』
人生の選択肢の制限などを「人生被害」と表現しました。
家族訴訟の原告団副団長はカメラに向かって呼びかけました。
【家族訴訟原告団副団長 黄光男さん】
「もう、この判決を受けたら、結果を見たら『もう口を閉ざす必要はないんだ』と。堂々と家族と入所者と、関係性を取り戻す、そういう段階に入りましたから療養所に残っている自分の母親や父親、まだ一回も連絡を取れてない人がもしいたとしたら、ぜひ電話の一本でも、かけてあげてほしいと思うんです。そのための今日の判決、そういう意義があったのではないかと思います」
大きく歴史が動くも…まだ踏み出したばかり
この夏、金地慶四郎さんは、長年暮らした療養所の中で、人生最期の時を過ごしていました。
判決の10日後、慶四郎さんは、旅立ちました。
告別式には家族の姿はなく、妹からの手紙が読み上げられました。
『兄には、本当にさみしい思いをさせて申し訳なく思っています。そんな兄が電話の最後にはきまって私のことを祈っていると言ってくれました。私は兄の思いに守られてきました。長きにわたり兄と親しくお付き合いいただいた皆様、まことにありがとうございました』
10月になり、取材スタッフは慶四郎さんの遺骨が眠る納骨堂を訪ねました。
【ソーシャルワーカー 坂手さん】
「金地さん、来てくれたよ、金地さん」
この日、驚く「しらせ」を聞きました。
身内の一人が、遺骨の一部を持ち帰ったというのです。
【坂手さん】
「分骨は、金地さん自身は全然、思っていらっしゃらなかったですね。ご家族が持って帰ってくれるなんて金地さん思っていなかったから、びっくりしていると思います。すごく喜んでいると思います」
遺骨を持ち帰ったのは、絶縁状態になっていた兄の息子でした。
『ハンセン病という理不尽な病気のため、私は今年になるまで慶四郎さんの存在すら知らなかった。
なぜ親父が隠していたのか。理解もでき、納得もできる。
しかし、理解も納得も出来ない。
今となっては二人とも他界し、答えが分からない』
判決を受け、11月15日、ハンセン病元患者の家族に最大180万円を支給する補償法などが成立しました。法律の前文には、国会及び政府を主語とした「お詫び」とこのような決意が書かれています。
『ハンセン病元患者等に対するいわれのない偏見と差別を国民と共に根絶する決意を新たにするものである』
私たちの社会は、差別の解消に向け、新たな一歩を踏み出したばかりです。
【補償制度について】
国が元患者の家族に補償金を支払う法律が成立したことを受け、11月22日から厚生労働省は請求の受付を開始。厚生労働省のHPに補償を受けられる家族の関係や方法など詳しく載っています。