終戦から74年。
戦争を経験した人たちが年々減るなか、兵庫県にある復元された戦闘機が注目されています。
アメリカ軍にも恐れられた「紫電改」。
その光と影を伝える人々の想いです。
兵庫県加西市にある「紫電改」の実物大模型
兵庫県加西市。
のどかな田園風景が広がるこの街の一角に、厳しい暑さにもかかわらず多くの人が訪れる場所があります。
太平洋戦争中、日本海軍の“切り札”としてアメリカからも恐れられていた最新鋭の戦闘機「紫電改」の実物大模型。
公開されているのは、加西市のほぼ中央にある「鶉野飛行場」の跡地です。
【鶉野平和祈念の碑苑保存会・上谷昭夫さん】
「皆さん、この飛行機がなんで加西市にあるのか、ご存知ですか?戦争が終わるまでの間、この鶉野ではこの飛行機をどんどん作った。全部で46機作られたんです」
「紫電改」の歴史を伝える、上谷昭夫さん・80歳。
「鶉野飛行場」の跡地を“戦争遺跡”として残そうと活動を続けるなか、紫電改の復元にも深く携わりました。
【鶉野平和祈念の碑苑保存会・上谷昭夫さん】
「夏休みに入ったので、子ども連れ、親子で来る人もいる。また飛行機の勉強をする、という人たちも来ている。180人の方がこの飛行機によって戦死した。命の重み、そういう犠牲も戦争であるんやと。そういうことを知ってもらって…」
今年6月に公開されて以降、見学に訪れた人は1万人にものぼります。
【見学に来た人】
「初めて見ました。昔のことを色々知れたのでよかった」
【見学に来た人】
「子どもたちには、戦争のない日本、いまの日本がありがたい、ということもわかって欲しいし、過去にこういうことがあった、という事実も知って欲しいので、いい勉強になったなと」
【見学に来た人】
「忘れかけているじゃないですか。(戦争を)知らないし。親から聞いた話くらいしか。それを思い出して…」
戦時中に起こった知られざる「事故」
終戦の日を前にしたこの日、上谷さんのもとを1人の男性が訪れました。
【吉岡文麿さん】
「立派な模型が出来ているが、本心はこういう飛行機が必要でない世の中が出来ればうれしい」
82歳の吉岡文麿さん。
戦時中、紫電改が関係したある“事故”で、九死に一生を得ました。
事故の現場は、鶉野飛行場から少し離れた、当時国鉄が走っていた場所です。
【吉岡文麿さん(82)】
「うとうとしながら列車に乗っていたが、ふと目をあげると、右手に、瀬戸内の方から飛行機が飛んできた。列車のほうに向かって飛んできたので『あ、当たる!』と思った。瞬間的に」
1945年3月31日、試験飛行を終えた「紫電改」が、この場所に不時着。
その時、レールが変形し直後に通過した列車が転覆したのです。
乗客11人とパイロットが死亡、62人が重軽傷を負いました。
【転覆した列車に乗っていた吉岡文麿さん(82)】
「軍隊のトラックが来て、兵隊がたくさん降りてきて、我々の列車の方に助けの手をのばさず、田んぼにある稲わらを飛行機かぶせて、見えなくするようにしていた。(事故は)忘れることのできない、大きな心の傷として残っています。しかし、兵隊がとった行動、なぜ兵隊が乗客を助けなかったのかは、今でこそ言えることで、当時はそれが正しいものだと思っていた」
事故については長年、ほとんど知られてきませんでしたが、上谷さんは当時を知る人や古い資料を探してその詳細を掘り起こしました。
【上谷昭夫さん】
「飛行機に対する思いを調査するうえでは、本当に(事故の)真相を語り継がないといけないと思った。あの時、兵隊たちが来て、同じように(事故に遭った)民間人を救出していれば、吉岡さんの思いも違ったと思うが、それが当時の現状だったのかなと」
かつての飛行場に今年、ようやく帰ってきた「紫電改」。
その“光”と“影”の両方を知ってほしいと、上谷さんは考えています。
【鶉野平和祈念の碑苑保存会・上谷昭夫さん】
「(紫電改を)ええ恰好やなという前に、この飛行機で亡くなった人たち。本当にその人達のことも忘れてはダメ」
終戦から、74年-。
現代に復活したその機体が「戦争の記憶」を、私たちに語りかけます。