<電車の先頭車両から線路>
【アナウンス】
「まもなく六甲道、六甲道です」
1995年1月17日、神戸の街は壊れました。
死者6434人、負傷者43792人、行方不明者3人。
被害を受けた住宅はおよそ64万棟。
人々が少しずつ積み上げてきた、当たり前だった日常は突然、失われました。
そして、多くの商店が立ち並び活気ある下町だった、
神戸市灘区のJR六甲道駅周辺もまた、震災で甚大な被害を受けた場所でした。
【六甲道に住む人々】
「復活は無いのかなっていうくらい、ぐちゃぐちゃでしたね」
「これ、10年以上(復興に)かかるん違うんかなと」
人々の生活を支える大動脈「JR六甲道駅」が崩れ落ち、
町は大阪からも三宮からも分断された「陸の孤島」になりました。
駅復旧に2年以上かかると思われましたが、奇跡の大工事を経て
わずか74日後に鉄道が復旧し町は再び動き始めます。
六甲道の「震災」と「復興」について話を聞きました。
岩澤茂幸(いわざわ しげゆき)さん(59)は、
倒壊した六甲道の駅再建工事に従事した奥村組の社員です。
鉄道工事が専門だった岩澤さんは、震災翌日に現場に入りました。
【岩澤茂幸(いわざわ しげゆき)さん(59)】
「今まで我々が建設業として、壊れないものを作ってきたという想いがあったんですけど、常識が覆されて愕然としました」
駅は、線路が走る高架橋を支える柱が破壊され、崩れ落ちました。
全て建て替えるとなると、復旧までに2年以上はかかると思われていました。
しかし、それでは町から人がいなくなってしまいます。
岩澤さんたちは一つの結論を出しました。
【岩澤さん】
「ジャッキアップという、以前JRで宮城沖の地震で(鉄道復旧に)採用された方法をやると決まりましたので」
ジャッキアップ工法は被害の少なかった高架橋をジャッキで持ち上げ、
柱などを作り直し、高架橋もそのまま再利用するという方法です。
しかし、大規模な駅の崩落現場で行われた実績は、今までなく、
与えられた時間はわずか2か月足らず。不可能にも思える工事でした。
【岩澤さん】
「(作業)途中で余震があったんで、慌てて、余震や!と必死で逃げたこともあります。
怖かったんですけど、我々がコンクリートで壊れないと思っていたものが壊れた中で、
今度我々ができるのは復旧していくと、それが建設業の使命だという想いもだんだんと高まってきました」
250人ほどの関係者が、昼夜を問わず慎重に作業を続け、
震災からおよそ2カ月半後の、4月1日に運行再開にこぎつけました。
【岩澤さん】
「4月1日電車が通りだしたとき、皆さんが笑顔で改札の方に向かわれる姿を見た時に、あぁよかったなぁという思いが湧きました」
命の危険となり合わせの日々の中で、岩澤さんには忘れられない光景があります。
『工事のみなさま、おけがのないように』
【藤井英紀(ふじい ひでき)さん(70)】
「駅の方で(工事を)頑張っておられるので、自分自身じっとしていること自体も寂しかった。
世間に悪いような。なんかしたいという気持ちはずっと持ってた」
横断幕を作った藤井英紀さん(70)。
六甲道駅前にあったビルの書店で30年以上働いていました。
Q:町への愛着は?
【藤井さん】
「(町に対する)愛着は、それはありました。口では言えないくらい。
何年かかるか分からんけど、私らの世代では到底無理やと思ってましたから。
次の世代に上手くバトンタッチできればいいな、と。それを念じてました。特に駅の方に関しては」
当然、店の営業はできません。それでも、ほぼ毎日店には通っていました。
変わり果てた町の様子を眺めていた時、懸命に駅を直す作業員の姿が目に留まり、
気持ちだけでも伝えたいと思ったそうです。
Q:初めて電車が通った時は?
【藤井さん】
「これでまたこの辺の商店街が復興できると。みんなそれぞれ大変だった。
第一お客さんがいない。駅がないからね。
そんな中でとにかく皆さん何とか、かんとか生きていたんで。その喜びは皆さん一様に同じ」
六甲道駅の目の前で、40年以上営業する一軒の喫茶店を藤井さんが教えてくれました。
【わが町 今村久恵さん(68)】
「奥村組の事務所にあれ(コーヒー豆)を持っていって、『すいません、電気かしてください』といって
ある豆全部挽かせてもらって、コーヒーを紙コップで商売するようになった」
今村さんの自宅と、喫茶店が入るビルは全壊し、取り壊しになりました。
家族で、実家のある明石に避難しましたが、六甲道でやり直したいという想いは、
どうしても消えず、3月からは店で寝泊まりをするようになりました。
【今村さん】
「この地域で寝泊まりしていたのは私たちだけだったと思う。
電車の音も車の音も、人の声も、夜になったら全然聞こえない。シーンとする。
でも、その中で奥村組の工事の音にすっごい救われました。ああ、生きているなぁと。復興していると」
2人は、この町で育ち、マスターが始めた店で出会い、結婚し、家族を持ちました。
家は無くなり、仮設店舗なども経験しましたが、町の復興を信じ続け、
2000年に震災前と全く同じ、駅が見えるこの場所に帰ってきました。
Q:どこか他の土地でやろうとは思わなかった?
【今村久恵さん】
「思わなかったです。よそでするんだったらしないです。この町で『わが町』を復活させると」「地元愛やね」
【わが町マスター・今村裕次さん(70)】
「まだ、ここに住み続けるんや…という」
奇跡の大工事と、そこに暮らしていた人達。
【岩澤さん】
「我々の思いだけではできなかった。皆さんの横断幕もあれば通行されている方に
ちょっと、ご苦労様と言っていただけるような、そういう色々な支えがあって、
それが我々の力になって、工事も進んでいったと考えています」
駅の復旧で繋がった人の想いが、六甲道には今も、生き続けています。