水俣病の被害に対する救済を求める人たちが起こした裁判で、注目の判決が27日に言い渡されます。初確認から70年以上がたった今も、水俣病の症状に苦しむ人たち。それでも、国からの助けがない現状に思いを語りました。
4大公害病の1つ「水俣病」。
初めて公式に確認されたのは1956年のことで、熊本県水俣市の企業「チッソ」が海に流した「メチル水銀」により魚介類が汚染されたことが原因でした。
手足がしびれたり、転びやすくなったりするのが特徴で、けいれんをおこして死亡するケースも多くありました。
9年前に水俣病と診断された前田芳枝さん(74)。鹿児島県に住んでいた10代のころから、字が書けないほど手が震える症状に悩まされてきました。
【前田芳枝さん】
「しんどい…ごめんなさい、こんな字しか書けないんですよ。(葬儀などで)署名をするのにこの手で書けないから…。お友達、近くに居る人に『手をけがしていてペンが持てないだから悪いけど一緒に書いて』って」
前田さんのように、いまも水俣病に苦しむ人たちは大勢います。しかし、救済をめぐる国や企業との戦いは、まだ決着していません。 水俣病の被害者の救済は50年ほど前から始まりましたが、当初の救済基準は、複数の症状が必要とされるなど厳しいもので、これを満たさない被害者が続出。
国は裁判での敗訴などを経て2010年、水俣病特別措置法によって、救済の対象となる症状の基準を緩め、一時金や医療費を支払うことを決めましたが、これでも問題の解決とはなりませんでした。
2014年には、現在前田さんも参加している原告団が、1人400万円の慰謝料を求めて提訴。前田さんのように水俣病と診断されたり症状があるにもかかわらず、特措法でも救われなかった人がたくさんいたのです。
特措法では、救済の対象を原則として「メチル水銀を通常よりも多く摂取してしまう状況」であった一部の地域に居住していた人に限定しています。前田さんが住んでいた地域は、わずかに対象から外れた場所でした。
当時、近くで捕れた魚をよく食べていたという前田さん。この基準に到底納得することはできません。
【前田芳枝さん】
「海に線を引くとか地域に線引くとか、何のためにそういうことするの?って、切り捨てたいの?って言いたい」
水俣病の歴史に詳しい大阪公立大学の除本教授はこう話します。
【大阪公立大学・除本理史教授】
「魚は色んなところに泳いでいきますし、食べ物として流通する(対象)地域が狭く限定されている」
さらに、民法では不法行為から20年がたつと賠償請求権がなくなる「除斥期間」が定められていて、国はこれを理由にすでに前田さんたちに請求権はないと主張。
しかし除本教授は、9年前に水俣病だと気づいた前田さんのような人が多く生まれたのは、国が、被害の実態を把握するための調査を積極的に行ってこなかったからだと指摘します。
【大阪公立大学・除本理史教授】
「何十年も不作為、調査しない(状況)が続いてきた。行政がやってきたことの問題、その結果を被害者に押し付けている非常に問題だと思う」
提訴から9年。「すべての患者を救ってほしい」と、前田さんたちが戦い続けた裁判の判決は、27日に言い渡されます。
【前田芳枝さん】
「魚を食べただけなんです。だけど、こんな体になってしまった。それをどう取り戻せるんですか、どうしてくれるんですかって、どうしてくれるのって」
失った人生の時間を償ってほしい。その願いに司法はどう応じるのでしょうか。
(関西テレビ「newsランナー」9月26日放送)