2007年11月27日(火)
恩讐のかなた 一隅のひかり 森永ひ素ミルク事件52年目の訪問

恩讐のかなた 一隅のひかり 森永ひ素ミルク事件52年目の訪問

受賞

ギャラクシー賞奨励賞

森永ひ素ミルク事件とは?

昭和30年の夏、西日本一体で高熱や下痢におそわれる赤ちゃんが続出した。原因は、森永乳業徳島工場で作られた粉ミルク。生産ラインにひ素が混入。病院は泣き叫ぶ赤ちゃんたちであふれかえった。みな肌が黒ずむ「ひ素」中毒特有の症状。死者130人、被害者は1万人を越えた。専門家は後遺症の心配はほとんど無いと診断。森永は遺族に補償金を支払い、事件は終結。
ところが14年後、大阪大学の丸山教授が後遺症で苦しんでいる患者の実態を告発。親たちは子どもを一生、面倒見てほしいという恒久救済を求め、製品の不買運動と民事訴訟に踏み切る。親たちの願いは金でなく人間の尊厳の回復。事件から18年の歳月を経て、森永乳業は全面的に非を認め謝罪。全ての被害者救済の一切の義務を負担、恒久対策を全面的におこなうと表明した。厚生省、加害企業、被害者3者で、財団法人「ひかり協会」が設立、救済事業は今年で34年間、続いている。

番組内容

矢野謙一郎さん(53)。粉ミルクの後遺症で全身が麻痺。言語障害もあります。妻のヤス子さんも持病をもち、いつ倒れるか分かりません。障害者同士の結婚に身内から反対がありましたが謙一郎さんが説得しました。謙一郎さんは佐賀県の炭鉱で働く両親のもと元気に生まれますが、粉ミルクを飲んで中毒に。往診した医者が飲んでいた粉ミルクに問題の製造番号のミルク缶があり保健所へとどけます。しかし、厚生省の認定患者の名簿から矢野さんは外れていました。原因は調査票に、「ミルクの飲用はなし」と改ざんされていたからです。乳児期の飲用の証拠があいまいなどと、「因果関係がない」と言われた未確認患者は1千人以上。矢野さんは法廷で「真実を知ってほしい」と証言。国と加害企業が動きました。因果関係の証明なく申告で全ての救済がされることになったのです。
渡辺義広さん(52)。両手両足が不自由、食事から身の回りにいたるまでヘルパーの介助が必要です。睡眠時無呼吸症候群。24時間介護が必要な重度の被害者です。6年前、お母さんが亡くなり、1人暮しを始めました。お母さんがやっていたことをヘルパーに頼みます。しかしヘルパーの時間数が足りません。行政だけでは支えきれない部分をひかり協会が支援します。昼間は、施設でリハビリ、夕方から夜間中学へ通います。夢は高校進学です。彼は言います。「ひかり協会がなければ1人暮らしができず、1日中、施設に入っていた、ひ素ミルク中毒になってよかった」と。
番組では、軽度の被害者が重度の被害者を助け合う守る会やひかり協会の事業に関わる人間同士の関わりから、生きるとは何か、人間の尊厳とは何かを問いかけます。

取材スタッフからのメッセージ

親たちが作った「ひかり協会」は行政、地域の橋渡し役。「守る会」は軽度の被害者が同世代の重度の被害者に当たり前のように心の支援をしています。それは、ごく自然な仲間同士の絆。「自分達はミルク仲間、赤ちゃんのとき、共に苦労したよね」という連帯感。赤ちゃんのときから、死を身近に感じながら、生き抜いてきた人間的な優しさが溢れていました。今年、関西テレビもあってはならない不祥事を起こしました。償うとは何か?知りたくてこの半世紀の森永乳業の姿勢をまず、教えていただきました。その後、ひかり協会や被害者たちの哲学。恩讐のかなたの連帯を正直に見せてくれました。再生を学ぶなどと思った自分が恥ずかしい。「きれい事」でない極めて人間くさい営みがある事を学ばせていただきました。心でつながる放送局へ向け日々精進します。(担当D 塩川)