ザ・ドキュメント

2004年3月30日(火)

語り

橋爪功

音楽

サウスサイドジャズバンド

南海ホークスが大阪球場から消えて15年あまり。
男たちの戦場にはさまざまな思い・人間ドラマが秘められていた。それはあの時代の大阪の姿と重なっている。

2003年10月、大阪球場跡地に斬新な複合商業施設・「なんばパークス」が生まれた。今も多くの人で賑わいを見せている。
なんばパークスの七階にはかつての大阪球場を本拠地とした名門・南海ホークス(1938年創立、1988年ダイエーに売却)の記念パネルなどが飾られ往時をしのぶことが出来る。しかし、名選手たちのパネルや球団史の中に、かつての中心選手で監督もしていた「野村克也」の写真はおろか文字も、一字も見当たらない。懐かしそうに眺めるオールドファンや中年ファンも「ムース(野村の現役時代の愛称)が居らんがなぁ」と嘆く。

野村克也(1935年生まれ)は選手として南海の黄金時代の一角を担い、三冠王1回・MVP5回・ホームラン王9回、打点王7回・ベストナイン19回、数々の記録を打ち立ててきた名捕手にしてスラッガーでもあった。さらに南海時代の1970年から1977年までプレイングマネージャーを務め、1973年にはプレーオフで阪急ブレーブスを制してパリーグの覇者となっている優勝監督なのである。なんばパークスに野村の姿が一切ないのはなぜなのか?1977年の「公私混同」を理由とする解任事件だけが原因なのか?

カメラは鶴岡監督時代の南海ホークス黄金時代にさかのぼる。終戦直後、選手のスカウトまで任された若きプレイングマネージャー鶴岡一人は、南海ホークス一筋にすべてをささげ、「グラウンドに銭は落ちている。それを拾うのはおまえらや」と選手を激励し、西鉄・大毎と共に常に優勝争いに加わり、パリーグの黄金時代を築いた。杉浦の4連投・4連勝もあり、1959年(昭和 34年)には巨人を倒し、念願の日本一になった。南海は鶴岡親分のもと、「鶴岡一家」と呼ばれる結束だった。鶴岡がいったん退任後、監督を任された蔭山の急死など暗雲が立ち込める。そして野村監督時代と解任後の低迷、そして身売り。
取材は、関係者へのインタビューに当時の映像をおりまぜ、かつてのグラウンドや、今回の展示物では見えなかったそれぞれの選手・監督の思い・生きざまを描き出す。

そして今回、南海時代のことについて寡黙だった野村自身の口から、意外な思いが語られた!番組は南海ホークスへ、そして消え去ろうとするあの時代の大阪への異色の鎮魂歌である。

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