2001年6月8日。
事件が起きたのは、2時間目の授業が終わりに近づいた午前10時過ぎのことだった。
大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校に、刃物を持った男が侵入。
小学1年生と2年生の児童8人の命が奪われ、15人が重軽傷を負った。
悲惨な事件は、幼い子どもたちの目の前で起きていた―。
話すことが決して簡単ではない記憶と胸の内を、当時、児童として現場にいた3人が話してくれた。
■「なんで私の学校なんだろう、友達なんだろう」 受け取った、幼なじみの卒業証書
【渡辺怜奈さん】
「教室に犯人が入ってきて、何か叫んでいたのも覚えていて。犯人と私がぶつかったのも覚えています。幼いながらに危機を感じて、逃げないと…と思って」
事件当時は小学2年生だった、渡辺怜奈さん(28)。
犯人が確保されてから運動場に出ると、シャツに赤い血をつけた教師や友人を目にした。
何が起こったのか分からないまま帰宅し、幼なじみが亡くなったことを知ったのは、数日後だった。
【渡辺怜奈さん】
「最初は亡くなったことにピンと来なくて。『会えなくなるよ』と言われたときに、すごくショックで泣いたのは覚えています。なんで私の学校なんだろう。亡くなった子が私の友達なんだろうと思っていました」
教室に入るのが怖くなったクラスメートとは、「一緒にクラスに入ろう」と声をかけて支えながら歩いたこともあった。小学校を卒業するまで、教室には亡くなった子の写真や名札があり、給食を食べる時も集合写真を撮る時も、写真とともに生活をした。それが当たり前の感覚だったという。
卒業式では、幼なじみの卒業証書も受け取った。
【渡辺怜奈さん】
「ある時、親に『泣いてばかりではだめ。前向きにならないと亡くなった方に失礼でしょ』って言われて。その子たちの分まで胸を張って生きないと、と思うようになりました。私たちは事件の被害者であることは間違いない。でも、かわいそうな子と思われたくはないです。かわいそうだけじゃなくて、乗り越えて頑張っている人もいることを伝えたいです」
事件後、学校にはサッカーや野球のスポーツ選手などが訪れ、子どもたちを元気づけていた。その思い出は、渡辺さんが悲しみを乗り越えていくきっかけとなった。
多くの人に支えられた恩返しとして、自分も元気づける側に回りたいと、今はサッカーJリーグ「ガンバ大阪」のスタッフとしてファンクラブのイベントを企画している。
【渡辺怜奈さん】
「お客さんの笑顔が見られる仕事でもあるので楽しいです。悲しいことがあっても、サッカーを通して元気になってくれたらいいな。自分のできる範囲のことを今後もやっていけたら」
■当時の担任と同い年に もし自分が先生だったら…
事件当時2年生で、今は東京のIT企業で働くKさん(28)。
今回、初めて事件について取材を受けることを決めてくれた。
【Kさん】
「20年以上がたって、今の自分は当時の担任と同じ年になりました。『先生はなぜ子供を守ってくれなかったのか』という当時の意見は、かけ離れた大人の話だと思っていました。でも、もし自分が担任だったらと、最近ふと思うことがありました。完全に忘れ去られて、同じ事件が起こるのは一番悲しい。自分の意見が継承につながるのであればと思い、取材を受けました」
休み時間直前、後ろのドアから入ってきた見知らぬ男に、教室はパニックになった。
Kさんは担任にすがりながら事務室に逃げ、そのまま部屋の机の下に押し込められた。教師たちが電話で通報する声や、駆け付けた警察官の声をじっと聞いていた。
その後、Kさんは仲の良かった友人が亡くなったことを知った。
【Kさん】
「友達が目の前で殺されて…“事件”というものを自分の中で上手く扱えなかったのが正直なところ。亡くなったことを肌感覚まで落とし込めなくて。でも中学入学前まで1人でトイレに行けなくなったり、夜に眠れなくなったりしていました」
事件では児童全員が被害者だと考える反面、Kさんは「自分が被害を受けたとは言いたくない」と葛藤の気持ちを示した。
【Kさん】
「僕は目に見えて被害を受けたわけじゃないので、被害者面をしたくないんです。でも、外から見たら全員が被害者。事件後、プレハブ校舎での授業が始まるまで学校は休校で。数カ月は、通っていた幼稚園で預かってもらっていました。当然そこに行くと、被害者として扱われる。もっと被害を受けた人がいるのにと悩みました。6月8日には亡くなった友人に会いに行きます。優先順位が落ちることはない。ここを大事にしないと、自分は何も大事にできないと思うから」
■巻き込まれた以上は、何かを学び取らないといけない
大阪で口腔外科の歯科医師として働く松田拓馬さん(28)も、事件当時は2年生だった。
【松田拓馬さん】
「起立! 礼! のタイミングで犯人が部屋に入ってきて、先生かなと思ったんです。そうしたら、前日の席替えまで自分が座っていた席の子が胸を刺されました。その後、犯人が目の前に来て、足が動かなくなったんですけど、僕は刺されることなく…そのまま上の階に逃げました」
目の前で起きた悲惨な出来事は、成人するまで何度もフラッシュバックした。あの日のにおいまで思い出し、冷や汗をかくこともあった。
一度は別の進路を考えた松田さんは、物理学を学ぶ大学に入学したものの、人を助ける仕事をしたいと歯科医師になることを決めた。
被害を受けた同級生が目の前でぐったりしていくのを、何もできずに見ていた “無力感” が忘れられなかったからだ。
【松田拓馬さん】
「大人になって、小学2年生というのは、はたから見て本当に小さいなと。あれだけ幼い状況で事件に巻き込まれていたんだと驚きました。子どもを亡くした親御さんの気持ちってどうやったんやろうと、事件に対する捉え方の観点が変わっていきました。いつまでも事件に引っ張られたり、前向きになれなかったりとかはない。けれど、絶対に忘れられないものとして、人生の片隅にはずっとあるという認識です。事件は経験しない方がいいと思うけれど、巻き込まれた以上はそこから何か学び取らないといけないと思う。学校の安全の考え方とか、僕なら傷を負った人との関わり方とかを考え続けたいですね」
被害者は、経験しなくても良かったはずの悲しい記憶と向き合いながら、今を生きている。
「同じ思いをする人が2度と生まれてほしくない」
取材を受けることを決意してくれた当時の子どもたちの願いを、安全な社会を考えるきっかけにしたい。
(関西テレビ記者・鈴村菜央)