多くの市民の命が奪われた大阪大空襲から、今年で77年になります。
爆撃で命を失った先代の名を継ぎ、笑いの世界で空襲のことを伝えようとする落語家がいます。
記憶と歴史をたどりながら高座に上がる、その覚悟と想いを取材しました。
■空襲で命落とした先代 その名を継ぎ高座へ
笑いを求めて、多くの人が訪れる落語の寄席。
その中で、戦争を伝える創作落語を披露する落語家がいます。
三代目・桂花団治さん(59)です。
大阪空襲に巻き込まれ亡くなった先代。その名を、時を超えて継ぎました。
1945年。3月14日の第1次大阪大空襲をはじめ、大阪の街は50回以上の攻撃を受け、約1万5000人が犠牲になりました。
二代目は6月15日、第4次大空襲で亡くなりました。
「花団治」を襲名してわずか1年後でした。
【三代目・桂花団治さん】
「一番いい時やったと思うんですよね、それがいきなりね、無念やったやろうなって。これ、僕がしゃべらないかんなと思った」
長らく途絶えていた「花団治」の名を三代目が襲名したのは、終戦から70年が経った2015年でした。
■二代目が生きた証を譲り受け
二代目のおい・松井博さん(74)と松井さんの孫の遥さん(10)が、花団治さんの自宅を訪れました。
持ってきたのは、二代目が大事にしていたカバンです。
【二代目のおい・松井さん】
「女性と一緒に暮らしていたみたいですわ。その女性が『戦争で焼けたらあかんから』いうて、持ってこられたらしいです」
【花団治さん】
「それだけ、大事なものやったんですね」
【二代目のおい・松井博さん(74)】
「うちの父親、そっくりですわ」
二代目が生きた証。長い年月を経て、譲り受けました。
松井さんは、孫の遥さんを三代目に会わせ、自分の叔父さんの名を継いでくれたことを伝えました。
【遥さん】
「せっかく、自分のお気に入りのいい仕事を見つけたのに」
「もうちょっと長く続けてから、死にたかったんじゃないかと思う」
■二代目の記憶と時代をたどる
受け継いでいかないといけないものは、多くあります。
花団治さんは、二代目が亡くなった、大阪・天王寺区を訪ね歩きました。
【大阪・天王寺区で大阪空襲を経験した内山種次さん(90)】
「僕らの友達も1人、背中に焼夷弾を受けて即死した。一帯が全部焼けて何もない。私も気が動転しまして」
二代目は、どんな落語家だったのか?芸能史の研究家・前田憲司さんに協力を求め、調べました。
戦時中の資料は数少ない中、二代目が、襲名する前に「桂花次」として活動していたころのインタビュー記事が見つかりました。
【インタビュー記事】
「舞台でやったバナナ屋の真似の方が人気がありまして、本物のバナナ屋と間違われて、『夜店の組合に入れ』と言われましたが、『これは舞台上のことだけだ』と話したので、夜店の親分が承知してくれまして、舞台に出演する時は、その親分が絶えずバナナを送ってくれましたよ」
【花団治さん】
「僕も余興でバナナのたたき売りやっていました」
【芸能史研究家・前田憲司さん】
「代々の伝統芸能(笑)」
当時の新聞広告には、1945年の花月劇場の寄席に二代目の名前がありました。
公演開始は3月11日。この公演期間中に第1次大阪大空襲が始まりました。
【芸能史研究家・前田憲司さん】
「花月劇場が(3月の)空襲にあって公演が不可能になって、その後の6月の空襲で命を落とされた。非常に不遇で、それがなければ、戦後もまだまだ活躍できた」
花団治さんは、稽古場に飾った二代目の写真と向き合い、稽古を続けています。
【花団治さん】
「なんかね、お前そんだけ恵まれてるのにもっと稽古せんかいと言われてるような…わしらの分もお前がやれよって言われてる気もする」
■創作落語「防空壕」 二代目の無念を背負って
二代目の無念を背負い、創作落語「防空壕」を披露します。
【創作落語「防空壕」より】
「防空壕の近くで亡くなったという、そんな話を聞かされたんでございますけども」
「うちの防空壕、あんまり大きな声では言えまへんねんけどな、でまんねん」
「え?」
「でまんねんがな」
「え?」
「ゆーさんが」
「オチを聞いた途端に笑いが止まらんようになったと、そない言うてまんねん」
防空壕の中で、落語を披露する二代目の幽霊。
そのオチを聞いたら、永遠に笑いが止まらなくなるという…
しかし、落語好きの旦那が噺を聞きたいと、防空壕に入ります。
【創作落語「防空壕」より】
「二代目・桂花団治さんか、どんな落語をしてくれるんやろな、楽しみやな」
「なまんだぶ、なまんだぶ、お、出囃子つきか」
オチに差しかかる前に去ろうとしますが、落語が始まるやいなや、二代目の幽霊はこう切り出します。
【創作落語「防空壕」より】
(二代目の幽霊)「ハトがなんか落としていきよったよ」
「え、ハトがなんか落としていきよったよ?まさか、一口小噺やないやろな、おい。隣の家に囲いができたって?へえ~。右を向いて一言、左を向いて一言の一口小噺やないやろな…まあ、一口小噺も落語やいうたら落語やけど…まさか一口小噺やないやろな?」
(二代目の幽霊)「ふ~ん」
「一口小噺やがな!一口小噺…オチ、オチ、オチを聞いてもうた!」
■関心を持った大学生 想いは次世代に
花団治さんをきっかけに、大阪空襲に関心を持った若者もいます。
広島出身で、今は大阪の大学に通う、清水遥音さん(20)です。
【清水さん】
「なんで戦争と落語をつなげようと思われたんですか?」
【花団治さん】
「戦争のことなんで、真っ向からしゃべるとみながひいちゃうしね。でも落語の顔してやったら、ちょっとは聞いてもらえるかもわからないし」
清水さんは初めて、大阪空襲の慰霊碑を訪れ、手を合わせました。
【清水さん】
「話してくれる人がいても、自分たちが聞きに行かないとだめだし。周りに伝えていかないと、私でストップしてはだめだと思うので。何かできたらなと思うんですけどね」
■ひっそりと残る空襲の跡
街には今も空襲の跡がひっそりと残っています。
大阪府池田市には、後世に伝えようと、保存されている防空壕も。
各地で壊滅的な被害を受けた大阪の街。
多くの人や車が行き交い、気づくことはほとんどありません。
■当時13歳の女性 忘れられない記憶
花団治さんは、90歳の市川蓉子さんの自宅を訪ねました。
市川さんは、花団治さんの活動を知り、手記を託しました。
【市川蓉子さん(90)】
「焼け野原のがれきの中を歩いて…もう死体がころんころんとある」
当時13歳だった、77年前の記憶。今も鮮明に残っています。
【市川さんの手記より】
「大阪北区に大空襲があった」
「曽根崎警察署の周辺は、全滅の焼け野原で建物の形は何もない」
この空襲によるけが人は、大阪市中央公会堂に運び込まれていました。
【手記より】
「中に入ると、長い廊下に、応急手当ての包帯から血が滲んだ怪我人が所狭しと寝かされていた」
「地獄とは、このようなものかと思った」
大阪市福島区にあった市川さんの自宅周辺も空襲を受けました。
学徒動員で茨木市にいた市川さん。2日かけて徒歩で自宅に戻ると、姉が大けがをしていました。
【手記より】
「姉の枕元に座り、血が滲み出た包帯を見た途端、涙がドッと流れた」
「空襲で、姉は仲良しの友達と手をつないで逃げている途中に、肩から腕にかけて爆弾を受けた。友達はその場で即死だった」
市川さんの父が必死に姉を探しました。姉は病院に運ばれ、一命をとりとめました。
【市川さん】
「父はいつも、娘たちが出ていくときに何を着ているかを見ていたらしいです。途中で空襲にあって何が起こるかわからないでしょ。だから、必ず見ていた」
「自分の娘が着ているものをわかっているから、それに似たような死体を見つけたら、ひとつひとつ見て(姉を探した)」
【花団治さん】
「ああ、そうか、朝ちゃんと服を見て…行ってらっしゃいの重みが違うよね」
終戦からの長い年月で、両親やきょうだいは亡くなり、今は市川さんと10歳離れた妹だけになりました。
■「市井の人の暮らしにこだわる」
花団治さんが市川さんから話を聞いた1週間後、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まりました。
また、普通に暮らしていた人々が戦火の犠牲になっています。
【花団治さん】
「愛する人を急にね…想像しただけで、胸が締め付けられる」
「プーチンにはそういう想像力がないのか」
【花団治さん】
「自分ごととして捉えて欲しい、戦争を。僕も含めて。だから、市井の、普通の人の暮らしというところにこだわっている」
「想像して欲しい。戦争ってどうなのか」
道半ばで命を奪われた二代目の名を継ぎ、落語を続けられている自分。
もっと伝えたいことがあります。
(関西テレビ「報道ランナー」2022年3月14日放送)