去年5月31日、医療スタッフに支えられながら1歩1歩足を踏み出す山口雄也さん。
肺や血液などのがんで闘病を続け、その様子をSNSで発信していました。
【twitterの投稿】
「何とか踏ん張って歩けて5m以上はしっかりと歩けるようになりました。ここからまた距離を伸ばしていきます」
この投稿の6日後、雄也さんは23歳で息を引き取りました。
雄也さんが続けた発信は一冊の本にまとめられました。
タイトルは『「がんになって良かった」と言いたい』。
彼が遺したメッセージをたどっていきます。
2月27日、京都市左京区。
【雄也さんの母・七美さん】
「これ小学校の時の卒業制作なんですよ。木箱だけを与えられてみんな自分でデザインするんですけど、雄也は締め切りのギリギリまでかかって、家にまで持って帰ってきて」
幼い頃から1つの事を突き詰める性格だった雄也さん。
雄也さんの部屋は趣味だった鉄道や車など、思い出の品でいっぱいです。
闘病の支えになった友人からのメッセージもありました。
愛車はマツダのRX-8。
自分でカスタマイズした世界で1台の車です。
学校へ行くにも旅行へ行くにもこの車と一緒でした。
【雄也さんの父・睦雅さん】
「(納車した)帰りにね、『お父さんラーメンおごったるわ』と。それが雄也からごちそうしてもらった、最初で最後になったんですけど。初めて息子におごってもらったラーメンの味は忘れないですね」
雄也さんは2016年に京都大学に入学。
がんと最初に診断されたのはその年の秋でした。
肺に見つかった影は、10万人に数人しか発病しない珍しいがんと診断されました。
抗がん剤治療や手術でほぼ完治しますが、2年後の夏には白血病を患います。
細胞の移植を受けますが、翌年の春に再発。
リスクの高い移植を受けましたがその1年後にまた再発。
これ以上の移植の成功率は1割にも満たないと告げられました。
【雄也さんの母・七美さん】
「信頼していた主治医が『非常に厳しい』と。主治医から『ちょっと自信がない』っていうような言葉も出たので。やっぱり主治医にそう言われると、本当にすごく不安にもなるし、(雄也も)何日も悩んでいたと思います」
白血病と診断されたときの気持ちを雄也さん自身が語っていました。
【2018年7月2日のブログより】
「母親に電話をかけ、『すぐに病院に来てほしい』と言った。『何があったの?どうしたの?』母親はそう聞いてきたが、僕はそれに何も答えられなかった。言葉が出なかった。『もうな…あかんわ』。それだけ絞り出して電話を切った」
【山口雄也さん】
「どう生きるのか。どう死ぬのか。何がいいの。そういうことについてすごく悩み抜きました」
20代になったばかりで死を意識せざるを得ない病状。
それでも・・・。
【2019年6月3日のブログより】
「サヨナラにはまだ早い。生きろ、生きるんだ」
雄也さんは、小・中・高校で陸上競技に打ち込みました。
母校の京都市立堀川高校。
陸上部の同級生が集まりました。
【同級生3人の会話】
「お調子者でムードメーカー。練習とかでも、すごく声がうるさいし通るし、彼がいないと締まらないみたいな」
「居て当たり前で、たぶんずっと一緒にいるんだろうなあって。ずっと仲良くしていくんだろうなと思ってた」
「でも、私たちの中であんまり重苦しい雰囲気とか全然なくて。普通に飲み会でも山口の話をしますし、誰もしんみりとしなくて。『それでいいよな』って言うのがあるよね、私らの中でも」
雄也さんが部活を引退する時、仲間に向けて書いた文章。
「ありがとう。最高の仲間に巡り会えましたとか書いてくれてるんだけど、ありがとうって感じやな」
雄也さんの恩師で、高校時代の陸上部の顧問がいる高校に向かいました。
図書室には山口さんの本が。
【京都市立京都工学院高校教頭 船越康平さん】
「彼が闘病生活の中で、入院している時もインターネットで、ウチの陸上部の結果を見ていて連絡をくれて。生徒には、直接の先輩でもない1人の大学生が、闘病生活をしているけれども、その彼がうちの生徒を、あたかも後輩のように思って、遠くの病院から応援してくれている…と。『陸上を頑張るだけで、闘病している人を勇気づけるかもしれない、ものすごい価値のある活動をしているんだよ』と伝えたことはあります」
小学校からの幼なじみ、山本周雅さん。
雄也さんと同じ京都大学の学生です。
学業の傍ら、バーを経営しています。
店のロゴもバーカウンターも、雄也さんと一緒に作ったものです。
山本さんは雄也さんが亡くなったことで、生きるとは何か見つめ直したと言います。
【山本周雅さん】
「死んだ瞬間に全てのことを自分が忘れようとも、 この世で作り上げたものが、未来に生き続けていくようなものを生涯をかけて作る。そういう姿勢は彼のブログとか発信の仕方を見て、完全に影響を受けました。彼はめっちゃしんどい状況で書いてますよね。普通、生きている間に、自分が満足するものだけで生きていければ正直いいと思うんですけど。 そういう姿勢を目指すのは、めちゃくちゃ美しいなと思って」
山口さんは土木技術者の父の背中を追いかけ、京都大学大学院の工学研究科を受験。
一度は不合格になりましたが翌年に合格し、水害対策と街づくりを学んでいました。
目標に向かって生きた雄也さん。
土木研究者の父に憧れて入った研究室で、水害の対策に効果的な街づくりの研究をしていました。
【雄也さんを指導していた田中智大助教】
「(研究)が社会にどうやって生かされるのかっていうのに強い関心があったと思いますね。そういうのは会話の端々にも言っていました」
しかし、病状が悪化する中、ブログには葛藤の言葉も。
【2021年3月18日のブログより】
「どうして俺には普通に生きる権利が無いんだ。どうして、どうして、どうして…!」
入院した雄也さん。
研究室の机には、全国から送られた応援の手紙が。
いつか退院した雄也さんが取りに来ると信じていました。
【研究室の同級生・西端亮裕さん】
「結局取りに来られなかったですけど。やっぱり取りに来てほしかったなって言うのがあって、ずっと置いていたんですけど。自分のは自分で取りに来いよって」
ありのまま、希望も葛藤も発信した雄也さん。
そのなかで挑発的な言葉を記すこともありました。
【2021年4月8日のブログより】
「誰かの命を救ってみたいと思ったことはありませんか!なければ人間じゃないですよ、まじで(笑)」
これは、長期の治療のなかで雄也さんの命を繋いだ「献血」の不足を訴えるために出た言葉でしたが、数多くの批判とともに拡散されました。
【山口雄也さん】
「献血というと、イメージとしては血が足りない方への血液のおすそ分け、みたいに考えていらっしゃる方が国内には結構多いと思うんですけれども。本当に死の淵に立たされながら、自分で血が作れない、そんな中で血を待ち望んでいる人間が、本当にその先に待っているというのを、もっとたくさんの方々に知っていただきたいなと思っています」
あえて批判される言葉を使い、切実な状況を広めようとしました。
雄也さんの発信で実際に周囲の人も行動を起こしました。
【研究室の同級生・加藤嵩史さん】
「彼は本当に献血の重要性って言うのをブログでもすごく言っていて。僕自身、献血はあんまり行ったことなかったんですけど、彼の発信を見てから、献血にすごく行くようになりまして」
もう一つ、多くの人に知ってほしいと思っていたことがあります。
【2019年5月25日のブログより】
「若年者、とりわけAYA世代のがんへの関心が少しでも高まって、より良い方向に認知されればいいなぁと思います」
それは15歳から39歳までの「AYA世代」と呼ばれる思春期や若年世代のがん患者です。
がんと診断される人は年間およそ100万人。
そのなかでAYA世代はおよそ2万人です。
3月、オンライン上での交流会が開かれました。
そこで語られたのは…
【血液がんで入退院を繰り返すAYA世代】
「(同じ病院には)ほとんどもう60代以上の方で。すごく孤独を感じていた」
【2021年に大腸がんと乳がんを発症したAYA世代】
「(治療後に)1カ月ぐらい慣らしの仕事をして、もうその次の月から通常の忙しさみたいな感じになった。体としてはまだ慣れてないし、気持ちとしてはすごく不安の中でやっているということを、病気を経験したことない方には分からない部分かな…と思うので」
患者の数が少なく、同世代と、進学や就職、結婚などの悩みを共有できないことが精神的な負担につながっています。
献血やAYA世代の支援の大切さを知り、発信を続けた雄也さんが発した言葉。
それが、「がんになって良かった」でした。
この言葉も多くの批判を受けましたが、言葉の真意を雄也さんから受け取った人がいます。
26歳の椎名健さんです。
白血病を患い、大学院を休学。
闘病生活を送っていましたが、病気ですべてを諦めようとした時、病院の中で雄也さんと出会いました。
【椎名健さん】
「(LINEで)彼はこういうふうに書いています。『「がんになって良かった」なんて言いたくない。でもそう言ってやれるぐらい、僕は僕の人生を強く強く肯定してやるんだと思っています』と書いてあって。だからガンになったということも含めて自分なんだと。そういう決意が、最後まで治療するところに表れているなと思いました。僕はその時にすごく彼の『「がんになって良かった」と言いたい』という言葉が、本当に彼自身の気持ちなんだなと思いました」
受け取った雄也さんの想いは今も生きています。
椎名さんのがんはほぼ完治し、4月から大学院の博士課程に進みます。
研究分野は白血病などの血液疾患について。
移植後の副作用を減らす研究です。
【椎名健さん】
「がんになって、それで今の人生があるわけで。とにかく、今がんになった自分の人生については、昔よりはいいんじゃないかなと思う」
2月、京都市の献血ルームには、雄也さんの言葉とともに献血推進を訴えるパネルが展示されました。
雄也さんの生涯に寄り添った家族はこう語ります。
【雄也さんの母・七美さん】
「『しんどい』とか『辛い』とかばかりだと、『大丈夫?』とか『頑張ってください』ということばかり返ってくるんですけど。そうじゃなくて、反対に『元気をもらいました』と言ってくれる人がいて、そういう発信ができていたことがすごいなって。あの状況のなかでね」
【雄也さんの父・睦雅さん】
「本当はね、生きていてほしかったというのは正直ですけど。自慢の息子でしたね。」
【山口雄也さん】
「僕にしか語れないこと、書けないこと、そういうものがあるんだと。何が何でもやり遂げようと思いました」
(2022年3月8日放送)