久保三也子さん。90歳。
75年前、現在のJR大正駅近くにある橋の上から見た光景が、今も目に焼き付いています。
【久保三也子さん(90)】
「向こうから来たら、着物ね、(川を)こっちからこっちへ、向こうへ流れてたわ。あれ、なんでこんなところに着物が流れてんねやろって思って見てたんよ。そしたら髪の毛がわーって流れるでしょ。あー人間や思て」
「あとでよく考えたら、女郎さんがね、みんな(川に)飛び込んでたらしいね」
久保さんが見たのは、近くにあった遊郭の女性たちの遺体でした。
【久保三也子さん(90)】
「私、今もこんな話するのしんどいけどね、結局私が生き残ったっていう負い目があるのよ。あんな人死んでしもたのに、私だけ生き残ったと思ったら、その時のことを話さないといかんなと」
1945年3月13日。午後11時57分。
274機ものアメリカ軍の爆撃機「B29」が大阪の街に押し寄せ、一晩のうちに大阪市内は焼け野原となりました。
その後、終戦まで続いた空襲は、60回近く。
約1万5000人が犠牲になりました。
これは、戦時中に陸軍が監修した、焼夷弾の火の消し方を指導するポスターです。
当時の市民は、空襲から避難することを法律で禁じられ、消火が義務づけられていました。
これが多くの犠牲者が出た要因の1つだと考えられています。
【久保三也子さん(90)】
「私ら知らんかったもん。焼夷弾落ちたらバケツリレーで消せって訓練されて、バケツリレーするどころの話やなかったもん」
空襲の傷跡は、いまもひっそりと残っています。
<機銃掃射跡・大阪城>
「日本軍の司令部があった大阪城 石垣には空襲による銃弾の跡が残る」
<大阪砲兵工廠旧化学分析場・大阪・中央区>
「大阪城東側にはアジアでも有数の軍需工場があったが、空襲で壊滅した」
<機銃掃射跡・大阪府立北野高校>
「空襲以外にも、戦闘機による低空からの機銃掃射を受けた」
当時福島区に住んでいた久保さんは、深夜の空襲が終わった朝、学徒動員されていた大正区の工場に向かいました。
その途中、現在の大阪メトロ本社近くに たどり着いたときの光景を、久保さんは絵に残しています。
【久保三也子さん(90)】
「(当時の大阪市)交通局の庁舎まで行ったのは、水があると思ってね。大きな防火用水、せっかくきたのに、防火用水の水、そこに黒焦げの人がいっぱい倒れてはってね」
「水槽の外に(遺体が)5、6人あったね、1人はお母さんやと思う。この人、子供さんを小さい骨抱えてはったから」
「防空壕の中で死んではるのみたらね、はじめは黒焦げの人やったけど、黒焦げの人が、がさっと崩れたのよ。下の人がまだ黒焦げになるほど焼けてなくて。内臓が、がっと見えたの」
「あんな気味の悪い死に方したくないな。真っ黒こげになって死にたいと。あの時はそう思ったつくづく」
無残に死んでいった人たちの無念を伝えたい。
久保さんは、大空襲を語り継ぐ活動を41歳の時から続けてきました。
しかし去年の夏、重い貧血で入院。代表を務める「大阪大空襲の体験を語る会」を3月末で解散することにしました。
【久保三也子さん(90)】
「いま生きてる人少ないからね」
「もう1年やったら50年って言われてるけど、もう1年もてへんからあかんねん」
語る会の解散を決めても、あの時代は伝え続けます。
2月なかば、毎年のように大空襲の講演会をしてきた大阪狭山市の中学校の先生たちが自宅にやってきました。
あまり語られない、当時の市民の生活をつぶさに伝えます。
【久保三也子さん(90)】
「各戸に1つ防空壕掘りなさいっていうことで、回って来るんですよね回覧板がね。大阪ね、狭いでしょ。だから、土間に掘ってするとか、玄関の畳をあげて、そこへ掘れって」
当時国は、国民をすぐ消火に当たらせるために自宅の真下に防空壕を掘るよう指導していました。
その中の状況を語り伝えます。
【久保三也子さん(90)】
「ここ(踏み台)へ足かけてポンって(防空壕に)飛び込んでたの」
【大阪狭山市立狭山中学校の先生】
「これ(に足を)かけてっていうから、(防空壕が)本当に小さいんですね?」
「ほんまにみんながぎゅうぎゅうで入るくらいの大きさしかなかったってことですね」
【大阪狭山市立狭山中学校・橋本大河さん】
「こうやって話を聞かせてもらったことを、次が僕らが伝えていく番ですし、その話を聞いた子供たちが次、どういうふうに伝えていくのかっていうのが、一番大事だと思う」
久保さんは、これまで講演を聞いてくれた子どもたちが、今度は伝える番となって大空襲を語り継いでくれることを願っています。
【久保三也子さん(90)】
「中学生とかちゃんと(感想文を)書いているよ。これからは自分たちがこれを伝えていかないといかんって書いてあった。家族だけでなく、そんなん割と多いのよ。私なんとなくそれで、ちょっと安心したのある」
同じ歴史を2度と繰り返さないために、語り継ぐ必要がある。
その思いをこめて、あの日の記憶を伝え続けます。