夫が「無精子症」それでも「自分で産みたい」妻の思い 「精子をもらって僕ができました」第三者からの精子提供で生まれた子 出自は隠さない夫婦の覚悟 生殖補助医療の現在地 2025年08月03日
ある日、兵庫県内に住む夫婦に告げられた夫の「無精子症」という診断。どうしたら自分たちの子を持てるのか、不妊治療でもどうにもならない現実に、途方に暮れた。
しかし、妻にはどうしても「自分で産みたい」という強い思いがあった。悩みぬいた2人がたどり着いた答えは「第三者からの精子提供」だった。 約80年前に日本で始まった第三者からの精子提供などの治療を指す「非配偶者間人工授精=AID」は、時代の移り変わりとともに、必要とする人は増えつつある。
一方、長年、法制化されずに運用されてきたなかで、いま様々な課題が浮き彫りとなってきている。
(関西テレビ報道センター 加藤さゆり)
■発覚した夫の「無精子症」 でも「自分で産みたい」妻の思い
兵庫県内に住む田中優さん(仮名・37歳)と妻のゆりこさん(仮名・36歳) は、結婚してすぐにでも子供がほしいと思っていたがなかなか恵まれなかった。
ゆりこさんには軽い子宮内膜症があったため、「これが原因かなー」くらいに考えていた。 不妊治療専門のクリニックに通って1年が経った頃、医師の勧めもあり、一応調べてみるかと、優さんも泌尿器科のクリニックで自分の体も調べてみることにした。
思いもよらない結果だった。精液検査とホルモン値を調べる血液検査で、優さんは「無精子症」であることがわかった。 無精子症とは、精液中に精子が全く見られない状態のことで、男性の100人に1人が該当するとの報告がある。
「ショックでした。それに1年間不妊治療に通った妻に申し訳なかったなと。どうしようっていうよりも何ができるかって考えました」
精巣にメスを入れて精子を取り出す手術も試みた。それでも精子は見つからなかった。遺伝子上、自分の子どもを授かることができない…。
その日の晩からは、どうしたら自分たちの子を授かれるのか必死に調べ始めた。養子縁組を支援している団体にも話を聞きに行った。
でも、ゆりこさんの中でどうしても諦めきれないことがあった。ただ子どもが欲しいだけでなく「やっぱり“自分で産みたい”というのが大きかった」。他の方法を探そうにも相談できる相手は誰もいなかった。
■たどり着いた「第三者からの精子提供」”提供者は匿名”に葛藤も
悩んだ末に2人がたどり着いたのは「第三者からの精子提供」だった。 AID=非配偶者間人工授精という治療法で、国内の限られたクリニックで実施されている。紹介された大阪市内のクリニックで、すぐにカウンセリングを受けた。
そこではクリニックが独自に集めた医学部生の凍結精子を使うという。 医師から言われたのは、提供者は完全に匿名で、血液型は揃えられるが、見た目までは合わせられないということだった。 この”匿名”というところに、ゆりこさんは思うところがなかったわけではない。
「自分は当たり前のように父親に似てるねとか話すじゃないですか、ここは父親に似てるね、ここは母親に似てるねって。そういう話ができないというか。いざ子どもが本気で提供者を知りたいって思ったときに、やっぱり申し訳ないというか…」
他県に行けば、親族間での精子提供で治療を行っているクリニックもある。でも通うには遠すぎた。
■迷っている時間はない 踏み切った精子提供で生まれた我が子「待ち望まれて生まれてきたんだよ」
日本で約80年前に始まった第三者の精子を使った生殖補助医療、AID。 国内では現在、日本産婦人科学会へ登録している16の医療機関などで受けることができ、これまでに1万人以上が生まれているという。
ゆりこさんは、匿名限定でも自宅から通える場所にクリニックがあるだけで恵まれていると考えた。
「通うクリニックに悩むより(匿名での提供を)受け入れるか受け入れないか、その二択って感じですね」
30歳を迎えたゆりこさんに、もう迷っている時間はなかった。 2回の人工授精を行って、ゆりこさんは無事、妊娠に成功した。 翌年、田中家待望の第一子となる男の子が誕生した。
生まれたばかりの我が子を抱いて、優さんもゆりこさんも肩の荷が下りた気がした。 そして、その小さな寝顔に2人は何度も語りかけた。
「君は待ち望まれて産まれてきたんだよ、私たちのところに来てくれてありがとう」
■「精子をもらって僕ができました」
全くん(仮名)はことし6歳になった。元気いっぱいの年長児。やさしい目元と、にかっと笑った表情は母のゆりこさんによく似ている。 当の全くんは、お父さんのことが大好きなパパっ子だ。
取材中も優さんの肩に上ったり、ひざに寝転がったり、四六時中くっついて離れない。2人は食べるものや好きな遊びまで似てきたという。
ゆりこさんは笑いながら言う。
「常に一緒にいるから影響が強くて、お互いが大好きなんですよ。私の入る余地はありません」
優さんとゆりこさんは、全くんが2歳のころからAIDによって生まれたことを絵本を使って伝え続けている。 出自のことは隠さず繰り返し話すほうがいいと、優さんは本などで見聞きしてきた。
優さんのあぐらの上に座って絵本を読み進める全くん。ページをめくるその手つきは慣れたものだ。その意味がわかってきている様子という全くんはこう話す。
「お父さんには精子がなかったでしょ、親切な人から精子をもらって僕ができました」
しかし、やはり気がかりなのは、“提供者が誰かわからない”ということ。もう少し成長したら、全くんが提供者のことを知りたくなるかもしれない。
■「出自を知る権利」国会では廃案に
こ の”出自を知る権利”を巡っては、ことし2月、超党派の国会議員連盟が初めて法案を国会に提出した。
法案では、治療を行う医療機関などを国が認定し、法律婚の夫婦に限って、提供された精子や卵子を使った体外受精を認める。提供ドナーの情報は、国が100年間保存し、子どもが成人後に希望すれば開示されるとした。
しかし、そのドナー情報は、身長や血液型など個人を特定しないもので、名前などの個人情報は「ドナーが提供時に同意した場合のみ」とされた。これでは匿名と変わらない。
子どもの“出自を知る権利”も守られないとして、当事者たちから反対の声が上がっていた。 結局、国会 で法案は審議されることなく廃案となった。
田中さん夫妻も、法制化の動きを注視していただけに、廃案には残念な思いはある。
「出自を知る権利については改善の余地は確かにあったので、絶対に通ってほしかったわけではないけれど、通れば第一歩になったと思います」
■第三者の精子から生まれた息子に「寄り添いたい」両親の覚悟
出自は隠さないようにしている田中さん夫妻だが、第三者の精子から生まれた全くんの意思は尊重するつもりだ。
「やっぱり僕らにはわからない感情が絶対芽生えると思うので、その時に寄り添いたいですね。仕方ないやんじゃなくて、本人がこうしたいという思いに」
何があっても全くんには全力で寄り添う覚悟でいると2人は話す。 「その時できる最善の選択をした」と胸を張れるように。
子どもを持ちたいという願いをかなえる「生殖補助医療」。
適切な実施のための法制化が叫ばれて20年が経つが、いまだ議論は停滞している。 今後、再び法整備の動きは出てくるのか、見通しは立っていない。
※この記事は、関西テレビとYahoo!ニュースによる共同連携企画です。