「1年10カ月前の記憶」で人物を判別できるのか 「無期懲役」有罪を判断する"重要証拠"となった目撃情報の正確性を科学的に検証すると… 収監中の受刑者が再審請求へ 20年前に発生した強盗殺人「神戸質店事件」 2025年05月29日
事件の捜査や裁判で、重要な証拠として扱われる「目撃証言」。
一方で、DNA鑑定により、冤罪被害の救済に取り組むアメリカの「イノセンス・プロジェクト」で判明した冤罪のうち、誤判原因の約7割を占めたのは、「誤った目撃証言」だった。
1年10カ月前の記憶に基づいた「目撃証言」の信用性が問われ、1審は「無罪」。
2審は「無期懲役」の判決が下された「神戸質店事件」。 判決確定から14年。
この「目撃証言」を科学的に検証し、獄中の受刑者が6月に裁判のやり直し「再審」請求を申し立てる予定だ。
「開かずの扉」といわれる再審の門は開くのか。 3回にわたり伝えるうちの第2回。
(関西テレビ・司法キャップ 菊谷雅美)
■「神戸質店事件」一貫して無罪を主張する緒方受刑者 1審では無罪も
20年前、神戸市の質店経営者の中島實さん(当時66歳)が、店舗兼住居で殺害され、現金1万650円が奪われた、いわゆる「神戸質店事件」。
緒方秀彦受刑者(66)は、仕事で質店を訪れたことは認めていたが、事件への関与は一貫して否認。裁判の行方を握ったのは、「目撃証言」だった。
1審の神戸地裁(岡田信裁判長)は、目撃者の供述に変遷があることや、記憶のあいまいさから、「目撃証言」の信用性に疑問があると判断。
検察が主張するそのほかの証拠を総合的に見ても、「犯人とみるには合理的な疑いが残る」として、無罪判決を言い渡した。
ところが、検察の控訴により開かれた2審の大阪高裁(小倉正三裁判長)は、全く同じ証拠から、目撃証言について「記憶に揺らぎがない」として、逆転、無期懲役の判決を言い渡したのだった。
緒方受刑者は上告するも最高裁が棄却。 2011年に無期懲役刑が確定し、岡山刑務所に服役して14年になる。
■6月に再審請求へ カギとなるのは「目撃証言」 目撃者は当初記憶について「自信がない」も…
今も塀の向こうから「無実」を訴える緒方受刑者は、ことし6月、冤罪被害者を救済する団体「イノセンス・プロジェクト・ジャパン(IPJ)」の支援を受け、大阪高裁に再審を請求する予定だ。
再審の扉を開ける“カギ”となるのは、裁判で有力な証拠とされた「目撃証言」だ。
・目撃者は事件当時、61歳の男性。 ・事件直後と思われる午後8時半ごろ、自動販売機でタバコを購入する際、質店の前で「布でくるまれた棒状の物を持った目つきの鋭い男」を目撃したという。
・報道で事件のことを知った目撃者は、自分が見た人物が犯人かもしれないと思い、事件から9日後、警察に伝えた。 このときの供述から浮かび上がるのは以下のような犯人像だ。
・身長 175センチぐらい ・年齢 50~60歳 ・体型 ガッチリ型 ・髪型 短髪 ・メガネ、口ひげなし (※裁判では、身長165~168センチぐらい、40代ぐらいと証言)
目撃者はこの時、「目撃は一瞬のことで似顔絵については自信がない」旨を警察に伝えたとされ、実際ここから1年以上、似顔絵は作成されていない。
それと同時に、警察では、緒方受刑者を含まない32人の写真を目撃者に見せ、目撃した人物に似ている人がいるのか、いないのかを問う「識別」という捜査が行われた。
目撃者は「似ている人はいない」とは答えず、2枚の写真を『似ている人物のもの』として選んでいる。
■「1年10カ月前の記憶」で正しく当時目撃した人物を判別できるか
そして、事件から1年10カ月後。緒方受刑者が質店事件での強盗殺人の疑いで逮捕される2週間前に、警察で再び目撃者による「識別」が行われた。
目撃者は20人の写真の中から、髪型や顔立ちは少し違うと感じたというものの、「目つきがよく似ている」として緒方受刑者の写真を選んだ。
そして逮捕後には、緒方受刑者が『自分の目撃した人物である』と確認したのだった。
気になるのは、目撃者が緒方受刑者を「目撃した不審な男」として選んだ根拠について、「目つき」にしか言及していない点だ。
目撃者は、裁判も含めてこれまで、鼻や口、眉毛など、目以外の顔の部分に一切言及していない。
「よく似ている」とした「目」にしても、「二重だったのか、一重だったのか」、「細かったのか」、「丸かったのか」。
そういった特徴には触れず、「鋭い」「睨むような感じ」といった印象を語っているだけなのだ。
そもそも、1年10カ月前に“一瞬”見た人の顔について、のちに判別することが、果たしてできるのだろうか。
筆者は40代後半に差し掛かり、記憶力の衰えを感じている。いくら「不審な人物」であったとしても、およそ2年も前に、わずかに見た人の顔を判別するのは簡単ではないだろう。
3カ月前に、一言話した人の顔を覚えているかどうかも怪しいところだ。
■「科学的な証拠」で冤罪を証明できるか 「神戸質店事件」は目撃証言を科学的に検証することに
1審から緒方受刑者の弁護人を務める戸谷嘉秀弁護士の依頼を受けた「イノセンス・プロジェクト・ジャパン(IPJ)」は、年間100件ほどある『冤罪救済の依頼』の中から、「神戸質店事件」を8件目の支援対象として決定した。
IPJが支援対象とすべきかどうか判断する、審査基準の柱は、「科学的な証拠」で冤罪を証明できるかどうかにある。
今回、IPJが派遣した2人の弁護士を含む6人で新たな弁護団を結成。弁護団は日本の目撃証言における研究の第一人者で、数多くの刑事裁判に専門家の証人として出廷する人間環境大学・厳島行雄教授監修のもと、「質店事件」の「目撃証言」を科学的に検証した。
■条件を再現し「目撃した人物の顔を2週間後に10枚の写真から識別できるか」実験
その1つが、“夜間、自動販売機で買い物をする際に偶然見かけた”という実際の「目撃証言」と似たシチュエーションで目撃した人物の顔を、約2週間後、10枚の写真の中から 識別するという実験だ。
実験には、「IPJ」の学生ボランティアなど10~40代の49人が参加。
「目撃」の実験であることを伝えると注意深く観察してしまう可能性があるため、参加者には「自動販売機での行動」に関する実験と伝えた。
結果は、49人中「目撃した記憶をもとに、写真を選んだ」人が30人。残り19人は、そもそも選ぶことすらできなかった。
そして写真を選んだ30人のうち、7人が目撃した人物の写真を選ぶことができた。
目撃した人物を正確に選ぶことができたのは、割合にして23パーセントである。
しかし、途中で「目撃に関する実験」だと気が付いた人が10人いたため、その人たちを除いて20人に絞ったところ、目撃した人物を選ぶことができたのは、たった1人で、5パーセントにまで下がった。 実験では、実際の事件現場よりも周囲を明るくし、写真の選別までの期間が「1年10カ月」ではなく、「約2週間」、目撃者もより年代が若い人と、好条件にしたにも関わらず、95パーセントが目撃した人物を間違えるという結果になったのだ。
■「識別」に用いられた写真には緒方受刑者除いて「事件前の日付」 捜査員の話や報道で「記憶の汚染」の可能性も
さらに、厳島教授は「識別」の方法についても、問題点を指摘する。
2度目の「識別」に使われた20枚の写真には、逮捕時に関連する日付を示す数字がそれぞれ記されていた。 緒方受刑者の写真には平成19(2007)年8月10日を示す「H190810」と記されていたが、そのほかの写真は、最も新しいもので「H171011」、「2005年10月11日」を意味し、いずれも事件が起きた「2005年10月18日」より以前の「日付」だった。
つまり、事件よりあとの日付は緒方受刑者の写真1枚のみであるため、この数字を手掛かりに「目撃した人物」として緒方受刑者のものを選ぶことができてしまうのだ。
また、目撃者には、捜査員らとの会話や報道などから情報を得ると、実際には自分が目撃していてない出来事でも、目撃者の”記憶”の一部にしてしまうという。 心理学で「事後情報効果」とよばれる作用で、「質店事件」の目撃者についても、こうした作用が働き、記憶が”汚染”された可能性を厳島教授は指摘する。 実際に、目撃者は「質店のシャッターから明かりが漏れていた」など、最初の供述ではしていない具体的な話を1年以上経ってし始めたほか、目撃した人物の身長や体型などについての供述も変遷している。
厳島教授は、これらに加え、目撃したのが「夜間」であることや目撃時間が「一瞬」と短いこと、目撃者が「高齢」であることも、記憶の保存にはマイナス要素に働くことが科学的に証明されていることから”問題を抱えた記憶”であったと話す。
【人間環境大学・厳島行雄教授】「目撃証言の怖いところは、自分で誤っているということがわからず、自動的にそれが起こってしまうということです。語っていることは、“自分の記憶”になってしまう。 “記憶”はビデオテープレコーダーのように、そのまま蘇る“記録”ではなくて、壊れやすく、いろんな情報を取り込んで変わっていく性質を持つもの。そういう前提知識をもっておかないといけない」
厳島教授によると、目撃証言が誤った有罪・無罪のを判断する原因となりやすいことから、アメリカの多くの裁判所では、目撃証拠の信頼性を科学的に評価し、“信頼性が低く、汚染された”目撃については、刑事事件の証拠から排除されるほど、慎重に扱われているという。
■緒方受刑者 「目撃証言」に関する科学的な検証結果を新たな証拠に「”脆弱な証拠”で有罪判決が確定した」再審請求へ
緒方受刑者は、今年6月、これら「目撃証言」に関する科学的な検証結果を新たな証拠に、”脆弱(ぜいじゃく=もろい)な証拠”で有罪判決が確定したとして、大阪高裁に再審を請求する予定だ。
厚く、重いとされる再審の扉は開くのかー 連載第3回は、逮捕から18年間“無実”を訴え続ける緒方受刑者から筆者に届いた手紙に記された今の思いと、「神戸質店事件」から見る再審制度の課題について伝える。