「福知山線脱線事故」には、もう一つの“現場”があります。それは多くの人が亡くなり、けがをした『車両』です。
来年、JR西日本の社員研修センターの隣に事故車両の保存施設が完成する予定ですが、事故の教訓を後世に伝えるために、どう残していくのかが問われています。
■犠牲者の多かった2両目に乗っていた小椋さん
25日朝、事故現場を訪れた小椋 聡さん(54)。
【小椋聡さん】「(車両の)中にいましたので、外の様子は想像でしかないので、できれば車両の中を知ってもらいたい。多分無理です、悲惨すぎて」
【ヘリリポート 2005年4月25日】「7両編成の列車ですが、3両目までが脱線、1両目・2両目は原形をとどめない形になっています」
毎日、当たり前に乗っていた電車が、一瞬にして凶器と化しました。
【小椋聡さん】「2両目に私は乗っていまして、(車両が)ちょうど『く』の字に折れ曲がった柱の裏にいました。車両の後ろの方に乗っていたのですが、激突した衝撃でだいぶ前の方に飛ばされまして」
乗っていたのは、最も犠牲者の多かった2両目。小椋さんは、講演会や絵を通して、事故の記憶を伝えてきました。
【小椋聡さん】「何十人もの人が、ガサっと車両の前の方に積み重なっているような状態で、私はたまたま右足の太ももから下を人の山の上の方に挟まれて反対向いてぶら下がっているような状態でした。私の隣の方はあお向けにぶら下がっていて、血がしたたり落ちるような状態で、この人はもう亡くなっているなとすぐに分かりました。がれきとか外れた座席とか人が上に山のように積み重なっている中で、非常に残念な形で人が亡くなっていったというのがあの事故の姿です」
■“最期の瞬間”を目にした小椋さん 「最期の乗車位置」を探す取り組み
自身も右足に大けがをしながら、車内では多くの人の“最期の瞬間”を目にしました。事故後、多くの遺族は、亡くなった家族が乗っていた場所を知りたがっていました。
それを知った小椋さんは、生存者の証言を集めて、「最期の乗車位置」を探す取り組みを始めました。
【小椋聡さん】「(事故直前まで)楽しそうにしゃべっていたとか、寝ていたみたいですとか、(遺族が)聞くとちょっと安心するというか、最期の場面として記憶するのではないかと思うんです」
残された車両は「もの」ではなく、誰かにとって大切な人が最期を迎えた「場所」。小椋さんが強く感じたのは、事故車両にしか伝えられない教訓があるということです。
【小椋聡さん】「車両の中でどんな風に無念な思いで命が奪われていって、将来がある人たちがそこで最期を迎えたのかというのが、きちんと伝わる形で残してほしいなと思っていました。伝わらない限りは、事故を防ごうとか、事故の悲惨さ伝えることがかなり弱くなってしまうんじゃないかなと思う」
■JR西日本は事故車両を保存 安全教育の場にする計画
JR西日本は事故車両を倉庫などで保管し、希望する遺族や負傷者に限定して公開してきました。
【長女を亡くした奥村恒夫さん】「非常につらいなという気持ちです」
【次男を亡くした上田弘志さん】「車両の中で痛かったやろうし、苦しかったやろな…」
そして、2019年、
【JR西日本 来島達夫社長 2019年当時】「鉄道安全考動館という施設と一体的に事故車両を保存して安全教育を行う。そのことが社員にとって、安全の業務に生かすという意味で非常に効果があると判断しました」
大阪府吹田市にあるJR西日本の社員研修センターを拡張して、事故車両の保存施設を整備する方針を決定。来年12月に完成する予定ですが、一般公開については「今後の検討課題」としていて、決めていません。
JR西日本が遺族と負傷者への説明会で示した車両展示のレイアウト案では、当初、損傷が激しい1両目から4両目までを、部品ごとに整理して棚に。車両の形が残る5両目から7両目は連結して展示するという案でした。
その後、JR西日本は、遺族や負傷者からの意見を聞き、2023年、新たな案を提示。基本的な配置は変わっていませんが、中央に車両を再現したような空間を作り、座席やつり革などを展示する形に修正しています。
2022年、保管されている事故車両を見に行った小椋さん。1両目から4両目までは、想像以上に細かく裁断されていて、これらを棚に並べるだけでは「事故の教訓は伝わらない」と懸念しています。
【小椋聡さん】「車輪みたいなものが残っていましたが、他のものはもう何か分からない。(電車のパーツだと)分かるのは、座席とつり革と車輪ぐらいです。(車両が)バラバラになる怖さとか、スピード、衝撃の強さは伝わるかもしれないですけど、人が人の人生を運んでいる鉄道だと伝わらないのではないか。人がその場でどういうことを感じて、どういうものを伝えたいか考えた上で展示をしない限りは、“物”みたいになってしまう」
担当者に何度意見を伝えても、ほとんど変わらないレイアウト案。一方で、JR西日本が直面している壁も感じています。
【小椋聡さん】「そういう(展示)場所が残ること自体が傷つく方もいるし、中には全部を捨ててほしいという人もいるみたい。相入れないものが一緒にかなりの数の人が思いをJRに伝えて、彼らはそれを精査しないといけない」
「自分たち(JR西日本)の主張をどこまで通していいのかも分からないし、かといって自分たちが起こした事故で、教訓として残していけるものにしないといけないというミッションも持っていると思う」
■「日航ジャンボ機墜落事故」 JALは「安全啓発センター」を開設し一般公開も
どうすれば、事故の教訓を伝えられるのか。4月11日、小椋さんが妻の朋子さんとともに訪れたのは、過去の大惨事を今に伝える「日本航空安全啓発センター」でした。
【日本航空 向山正人さん】「われわれが事故を起こした責任を感じなければいけませんし、その教訓を後世に伝えていかなければなりません」
1985年、乗客・乗員520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故。二度と事故を起こさないために、JALは事故から21年目に「安全啓発センター」を開設。一般にも公開しています。
【日本航空 向山正人さん】「こちらが安全啓発センターのメインルームになっています。そしてこのセンターの特徴が事故機の残骸、あるいはお客様が持っておられた品、実際のものを展示しているところです」
【小椋聡さん】「今回展示を見て、やはり“人に関わる部分”。この座席はどなたかが最期を迎えた座席であって、その人はだれかにとってすごく大事な人だったと見たら分かります。ものすごく心に響くと思う」
“失われた命”を伝える展示。そこにはJALの明確な意図がありました。
【日本航空 向山正人さん】「ご遺品・遺書を展示しているが、無念に命を落とさざるを得なかった方がこれだけいて、亡くなる直前の気持ちを紙に書かれて、あの時の気持ちはどうだったのか、それを遺族は読まれてどんな気持ちになるのか、事故を起こした側の社員が感じないといけない。この部分は重要視しています」
【小椋聡さん】「啓発センターの意味はそこにある。人を感じられるからこそ事故を体験していない人が、自分事として感じられる場所になると思いますので、ぜひJR西日本と一緒に考えていけたらいいなと思っています」
■見るのもつらい人がいる中 いかに事故車両を展示すべきか
なぜ、JALはここまでできたのか。小椋さんは、安全啓発センターの設立に携わった遺族のもとを訪れました。
日航機墜落事故の遺族などで作る「8・12連絡会」の事務局長・美谷島 邦子さん。1人で飛行機に乗っていた9歳の次男・健君を亡くしました。小椋さんとは脱線事故の直後から活動の相談に乗るなど、長年の付き合いです。
【小椋聡さん】「今の安全啓発センターの姿を、最初からイメージされていました?」
【美谷島邦子さん】「事故を起こさせないために(施設での)社員教育は当然だけど、いろんな人が命を大切にする施設にしてほしいと、(遺族は)最初から言い続けてきたんです」
当初、JALは機体を全て廃棄する方針でした。しかし、遺族の強い要望と国からの業務改善命令をきっかけに、遺族と一緒に安全啓発センターを作る方向にかじを切ったのです。
【小椋聡さん】「反対の人もいますよね?」
【美谷島邦子さん】「やっぱり見るのはつらい(人もいる)。でも絶対捨ててはいけないっていうのが共通用語。来ている人たち、社員だけじゃなくて安全に携わる人たちが、悲惨な出来事を心に刻んでほしいっていう思いだと思うから」
【小椋さんの妻・朋子さん】「何とかならないかな…」
【小椋聡さん】「JRの熱意しかないと思う。『私たちはこれをやりたいので、これを切り捨てます』とか。『ここにフォーカスして、このメッセージを伝えたいので、ぜひこうさせてください』って言って、みんなもう頭を下げて説得するぐらいの熱意ぐらいしか、僕はもうこの現状を打破する方法ないのかなって」
何のために、そして誰のために車両を展示したいのか、答えを示す“覚悟”が求められるJR西日本は…
【JR西日本 長谷川一明社長】「これから具体的な保存の仕方を、昨年の説明会でも少し述べさせていただいて、意見をいただいた。これからもより具体的なものを取りまとめながら、より多くの方に納得いただける形で保存していければと思っています」
来年12月、事故車両の保存施設は完成します。
(関西テレビ「newsランナー」 2024年4月25日放送)