11日、岩手県盛岡市の盛岡城跡公園で東日本大震災の追悼行事が行われました。
会場では県立不来方高校音楽部が、復興応援のために作られた『花は咲く』や、福島県南相馬市で生まれた『群青』などを歌い上げ、涙を浮かべながら聴く人の姿もありました。
不来方高校は全国でも指折りの合唱の名門校。震災後は県内の避難所で歌声を届けるなど、合唱を通じて震災復興に携わってきました。
そんな不来方高校のレパートリーに、6年前、ある歌が仲間入りしました。
『にいちゃんのランドセル』――東日本大震災ではなく、阪神・淡路大震災を題材にした歌です。
なぜ岩手の高校生たちが、29年前に起きた関西の震災の歌を歌うのか。そこには世代を超えた出会いがありました。
■阪神・淡路大震災で被災 2人の幼い子どもを亡くした米津さん
兵庫県芦屋市の小学生に、阪神・淡路大震災の当時の様子を伝える米津勝之さん(64)。
当時、芦屋市に住んでいた米津さんは、震災で長男の漢之くん(当時7歳)と、長女の深理ちゃん(当時5歳)を亡くしました。
崩れた自宅のがれきの中から、漢之くんが毎日使っていたランドセルが見つかりました。
米津さんは喪失感に苦しみながら、生き残った自分にできることを探し、2人の命について語り継ぐことを決意しました。
■震災後に生まれた弟が兄のランドセルを受け継ぐ
震災の後、米津さんは新しい命を授かりました。次女の英さんと次男の凜くんです。
凜くんは小学生になった時、兄・漢之くんが使っていたランドセルを自ら背負うことを決めました。
その理由を、小学6年の時にこう語っていました。
【米津凜くん】「友達に“汚いな、ぼろいな”と言われても、このランドセルには僕の祖父や父や兄の思いが詰まった温かみがあるので、ぼろくてもいいと言いました。兄と姉は、心の中で永遠に生き続けて見守ってくれています」(2014年1月 小学校の追悼式)
ランドセルを通して、亡くなったきょうだいの命をつないでいくエピソードは書籍化され、『にいちゃんのランドセル』という歌にもなりました。
■関西と東北 1曲の歌でつながった2つの被災地
この歌と不来方高校音楽部がつながったのは、阪神・淡路大震災から22年後の2017年でした。東京で偶然聞いた不来方高校の歌声に感銘を受けた米津さんは、“『にいちゃんのランドセル』を歌ってほしい”と手紙を送ります。
当時、音楽部の顧問だった村松玲子さんは依頼を快諾。実は不来方高校でも、震災から6年目を迎えた東日本大震災の風化にどう向き合うべきか悩んでいたところだったのです。米津さんが阪神・淡路大震災を伝え続ける思いは、東日本大震災の記憶を次の世代につなげたい村松さんの思いと同じものでした。
この出会い以来、米津さんは毎年、不来方高校を訪れ、阪神・淡路大震災の経験を語り、不来方高校は震災が起こった1月17日、米津さんに電話越しで『にいちゃんのランドセル』の歌声を届けています。
これまで、米津さんとの交流が続いてきた不来方高校ですが、来年度、他の高校と合併することが決まりました。 「不来方」として3月11日を迎えるのは来年が最後となります。
■君が生きていたこと ありがとう
そんな中で迎えた今年の3月11日。追悼行事が行われた盛岡市は、まだ冬の冷たい風が残っていました。不来方高校の伸びやかな歌声に導かれるように多くの人が集まり、そこには米津さんの姿もありました。
不来方高校は『群青』や『花は咲く』のほか、『にいちゃんのランドセル』など数曲を歌いました。
『にいちゃんのランドセル』 ( 作詞作曲:松本俊明)
いまここにいない君が
でもここにいる君が
つなげていく思いが
たくさんあるんだ 生きてゆくことは
つらいけれど
生きてゆく限り
喜びはめぐってくる 会ったことのない
君に言うよ
そのとき確かに
君が生きていたこと
ありがとう
(歌詞 一部抜粋)
米津さんは時折、歌詞を口ずさみながら、不来方高校の歌に聴き入っていました。
【米津勝之さん】「不来方高校は、私を東日本大震災に近づかせてくれた大きな存在です。不来方がなければ、3月11日に岩手に来ることもなかったと思います。震災を知るきっかけは、いろいろあっていいと思うんです。『にいちゃんのランドセル』を不来方高校が歌い続けていることで、東北の人が阪神・淡路大震災を知るきっかけになるかもしれないし、逆に関西の人たちにも東日本大震災に近づいてもらうことになるかもしれないし、歌を通じて今につながっているということは、すごく深い意味があると思います。」
1つのランドセルからつながった2つの被災地。世代を超えて、あの日の記憶を紡いでいます。