1月17日で阪神・淡路大震災から29年となります。亡くなったのは、6434人。当時、兵庫県西宮市で大切な家族を亡くした男性が、この29年間をどう向き合い、いま、歩みだしているのか、その思いを取材しました。
■阪神淡路大震災から29年 残された遺族「1年後に死のう」
関西大学の女子バレーボール部の監督を務める、岡田哲也さん(55)。自身も関西大学バレー部のOBです。
【岡田哲也さん】「母親がママさんバレーをやっていて、それについて行っていて。それでボールを触りだしてという感じで、ママさんバレーのチームの人から「うまい」って、おだててもらって、それがうれしくてという感じ。子供のころからバレーの選手になるのが夢だったので」
3人兄弟の末っ子の岡田さん。両親と似て、スポーツが大好きでした。
1995年1月17日。阪神淡路大震災が起きました。マグニチュード7.3の大きな揺れ。当時、岡田さんは社会人2年目で、システムエンジニアとして働いていました。兵庫県西宮市の自宅で被災し、2階の部屋に閉じ込められ、近所に住む叔父やいとこに助け出されました。
【岡田哲也さん】「まず最初に『他は?』って聞かれたから、『他、みんな逃げたと思う』って言ったんですよ。そしたら、いとこが『いや、無理やと思う』って言うから、最初は『何で』って思って、意味が分からなかったんですけど、屋根から出て、道に出て、初めて家がつぶれているのを見た」
1階には、岡田さんの両親とたまたま帰省していた姉とめいが寝ていました。岡田さんの他の4人は全壊した家の下敷きになっていました。
【岡田哲也さん】「一番真ん中辺に寝ていたのが見えて、実際触ったら、何とか潜り込んでちょっと触れることはできたけど、冷たくなっているのを確認した。両親のどちらかの髪の毛が見えたところから、現実みんな亡くなっているんやって分かって、叔母と一緒に見ているだけ…。他の人が遺体を出すのも全部やってくれて…」
震災は、大切な家族の命を一瞬にして奪いました。
【岡田哲也さん】「(震災後の)1年間はとりあえず、本当は死のうと思っていて。でもそれも本当に迷惑かけるから、みんな大変な思いをしていたので、すぐは更に迷惑かけるなと思って、1年は我慢しようと思っていたのですけど、一緒に死ねへんかってんから、そうやって逃げて死ぬのはよくないというか、もっと苦しむために生きなあかんと思って、いろいろあって、死ぬのはやめよう、生きなあかんなって」
■「すごく冷たい手」バレー部の同期が語る避難所にいた岡田さん
震災の記憶は、残された岡田さんを苦しめました。そんな岡田さんを忘れられずにいた人がいます。関西大学バレー部の同期で、キャプテンだった、斎藤潤一さん(55)。
斎藤さんは愛知県のテレビ局を退職し、2年前からは関西大学でジャーナリズムを教えています。
当時、震災から5日後、斎藤さんは、愛知県から西宮に駆けつけ、避難所にいる岡田さんを探しました。
【斎藤潤一さん】「線路越しに苦楽園の方までを歩いて行ったんですよね。その時も余震が来て、何度も結構怖い思いをしながら、その記憶は強烈に残っているんですね。彼が避難先の体育館で、4人の遺体の横でちょこんと座っている映像がずっと記憶に残っていて。手袋を持って行って、手袋を渡したとき、ちょっと手に触れた時のすごく冷たい手は肌感覚で覚えていますね…。同期12人いたんですね、バレー部の同期。3年目まで、しょっちゅう旅行に行ったりとか、卒業した後もバレーボールチームを作ってバレーやったり、でもそこから、彼だけは途切れてしまいましたね、やっぱり。どんなに誘っても来ないというのが10年くらい続いたのかな」
■震災を知らない世代に“自身の経験”を 「幸せになることは許された感じ」
斎藤さんが指導する今年度のゼミのテーマは、「阪神・淡路大震災」。震災を知らない世代に当時のことを知ってもらいたいと、学生たちが取り上げるドキュメンタリーの取材相手の一人として、岡田さんを選びました。
取材を任された学生たちは、岡田さんを通して、震災について学びます。この日、学生たちは直接、岡田さんに震災の経験についてインタビューしました。
【岡田哲也さん】「実際に地震が(阪神・淡路大震災から)10年たつころにあって、その日は1回だったら、その時もすごい動揺するだけで終わるけど、もう1回その日にあったから、頭では何とも思ってなくても、心の中に地震があるかもと思っているのか、無意識のうちに、体がずっと不安になっている。集中できないし、ぼーっとして、医務室に相談したら、『一人で抱えて頑張ってきたんやね』って言ってもらって、それまですごくしんどかったけど、しんどいのに頑張ってきた自分がいるんやなと思えて」
たとえ10年という時間が過ぎようとも、震災の経験と向き合えないまま、なかなか気持ちの整理がつきませんでした。
【学生】「向き合えたときはどういった感情でしたか?」
【岡田哲也さん】「自分をずっと育てて来てくれて、大学にも出してもらって、社会人にしてくれて、そこまで育ててもらったのに、一番死ぬかもしれないときに何もしなかったのは、そういう罪の意識もあるし、助けていないのは事実だから、自分が責任を感じることでしか、受け入れられないかなと、そういうことをたくさん考えてしまう。そう思っていたけど、自分の中でいろいろ振り返って、逆やったらどう思うかなって思った時、同じように生きている間は応援してくれていたし、自分が幸せに生きている方が喜んでくれるかもしれないなって、そっちの可能性が高いなと思えたから、幸せになることは許されたという感じ」
岡田さんが学生たちのカメラの前で話してくれた、本当の思い。学生たちは、これまでの取材したものを編集し、今学期の課題として提出します。
■同じような思いをした人を支えたい…カウンセラーの資格を取得
岡田さんは震災の記憶と向き合う中、同じような思いをした人が、悩みを打ち明けられるようカウンセラーの資格を取得しました。今は、企業や大学生でカウンセリングを行っています。
この日は、警察官を目指すバレー部の学生が相談しにきました。
【警察官を目指す学生】「自分は人を守りたいから、しっかり警察になって、人を守る職に就きたいなって」
【岡田哲也さん】「じゃあ例えばさ、守れなかったり、助けられなかったこともあるかもしれないやん、今後、それは?」
【警察官を目指す学生】「もし守れなかったら、自分の中でめっちゃ考えさせられるとか、悩むこともあると思うけど、遺族の方が悲しんでいたら、そばにいて話を聞くとか、そういうことも、業務ではないかもしれないけど、そういうことも自分はしたいなと思っていて、守れなかったイコール辞めるじゃなくて、守れなかったからこそ、絶対に次につなげて、絶対次は守るという意志でいけると思います」
■ようやく震災の記憶と向きあえるように 同期や後輩と話す“あの時”
2023年12月、バレー部の同期や後輩が久しぶりに集まりました。
【斎藤潤一さん】「今井と大原は、卒業した時が阪神淡路大震災の年?」
【今井さん】「そうです。4回の時、引退して、就職の準備をしていたころやね」
【大原さん】「ちょうど試験の日、後期試験がスタートする日」
【川島さん】「3連休明けな」
【斎藤潤一さん】「試験はどうなったの?」
【大原さん】「中止です。結局」
【斎藤潤一さん】「中止になったんや」
【斎藤潤一さん】「岡田さんが被災したことは聞いていた?」
【岡田哲也さん】「探しに今井、来てくれたもん」
【今井さん】「僕の家も泊まっていましたよね?」
【岡田哲也さん】「え?あ!行った、行った!行かせてもらった!」
【今井さん】「震災でずっとおって、うち来てくださいって。狭い二段ベッド」
【川島さん】「どこに住んでいたの?」
【今井さん】「僕、尼崎なんですよ。うちの家も半壊で」
【川島さん】「僕らは被災した人の中に入るかもしれないけど、身近な人が亡くなったわけでもないので、岡田君の気持ちはいまだに、本当の意味では理解できない、理解しているつもりでも、それは全然分からないから。こういうことを軽々しく語っていいのかも分からない」
【斎藤潤一さん】「そうだよね。ようやく30年くらいたって、こういう話もできるようになったけどさ、これまで、哲に震災の話していいのかってやっぱり思っていたよね。哲のお母さんが作ったライスボールをごちそうになって。ライスボールだっけ?」
【岡田哲也さん】「ライスコロッケな。あれ、なくなんねん。みんなに取られて」
【斎藤潤一さん】「おいしかったね」
【岡田哲也さん】「試合前に、試合前に自分が食べるものがなくなる。みんなに取られるねん」
■「感謝を忘れないように」家族を亡くして29年 今は頑張るしかない
岡田さんは時間を見つけては、西宮にあるお墓に行き、最近あった出来事を家族に報告しています。
【岡田哲也さん】「もう今は自分が頑張るしかないかなと。それを見てもらうしかないかなという感じですね。亡くなる前のこと、いろいろしてもらったことは、感謝は忘れないようにしようという感じですかね」
大切な家族を失ってから29年。時が過ぎても、忘れることはありません。
(関西テレビ「newsランナー」 2024年1月15日放送)