太平洋戦争で最初に「戦争の神」、「軍神」になった人達がいます。そして、その彼らと同じ作戦に出た「一人の将校」がこの戦争初の「捕虜」になりました。戦争中の世間の評価は対極のものでした。国民が熱狂する「軍神」の物語の裏に隠されたある男性の人生です。
2015年6月、東京で「薩摩琵琶」の演奏が再現されました。そこで演奏されたのは太平洋戦争中に流行した歌でした。
題材になっているのは、ハワイ・真珠湾攻撃に出撃した「特別攻撃隊」の「九軍神」です。
1941年12月8日の真珠湾攻撃。空からの奇襲のほかに、潜水艦で出撃したのが「特別攻撃隊」でした。
魚雷を積んだ二人乗りの小さな潜水艦。この特殊潜航艇5隻に乗り、真珠湾へ向かった乗組員9人が「戦の神」、軍神となったのです。
♪「聞いてください、お母さん、遠いハワイの真珠湾」
九軍神を称えたレコードも売り出されました。
戦後、この「特殊潜航艇」には戦果がなかったことが明らかになりますが、当時は決死の覚悟の出撃として、英雄に祭り上げられました。
愛媛県伊方町の三机湾で「9軍神」たちは訓練をしていました。訓練の間、若者達が過ごした旅館には、写真や遺品などが残されています。
【岩宮旅館 山本恵子さん】
「叔母たちはなんか訓練していたのは分かっていましたし、なんかの様子で死ぬ覚悟をしているのかなと薄々感じていたみたいですけどね」
実は、この「9軍神」にはもう一人の仲間がいました。酒巻和男少尉です。
酒巻少尉の潜航艇はオアフ島で座礁。一緒に乗っていた稲垣清二等兵曹は死に、生き残った酒巻少尉がこの戦争の捕虜第一号になりました。
【酒巻和男さんの弟 松原伸夫さん】
「戦死の公報が入りまして、ずっと戦争中拝みました。死んだものとして、けれどもその後すぐに生死不明と。それは一切世間に言わないでと海軍省から使いが来ました。捕虜というのは恥ずかしいことですから、当然日本の軍部や政府は一切言わないために不明とした」
「生きて虜囚の辱めをうけず」
これは戦陣訓と呼ばれる軍人の行動規範の一節です。当時は、「捕虜は恥」というのが、軍人にも民間人にも「常識」でした。この日本独特の考え方が酒巻少尉を苦しめます。
アメリカ軍に撮影された酒巻少尉は自分だと分からなくするために不自然な笑顔をつくっています。顔のやけどは自分で火の付いたタバコを押し付けたためです。初期の尋問記録には酒巻少尉の訴えが残されています。
「一番の失敗は捕虜になったこと、日本には知らせず処刑してください」
「正義の戦いを完遂し、まもなく死にます」
助かった命を捨て、死ぬことだけを望んでいました。
しかし、アメリカの捕虜収容所での生活が、酒巻少尉に「生きること」を決意させます。
差し入れられる「アメリカの新聞」には負け戦の状況や政府の批判も掲載されていました。当時の日本ではありえなかった言論の文化などに触れるうちに、日本独特の思想と軍国主義に対して疑念を抱きます。
そして「生」を肯定するようになります。収要所では、他の捕虜の自殺や自暴自棄な行動を止めたといいます。
【ロバート・ドイル教授】
「日本人はよく自殺するんです。何人が自殺したか分からない。酒巻さんは『もう止めよう』といいました。彼は石炭炭鉱にあるダイヤモンドでした。石炭鉱山は暗く、ダイヤモンドは輝いている。そして他の捕虜にまでその光を広めました。救いました。その人たちは日本の復興に役立ったと思います」
やがて、戦争が終わりました。日本が戦争に負け、日本の人々は神とあがめていた軍神を「軍国主義の象徴」として非難の対象にしました。
終戦の翌年に帰国した酒巻さんは、その後、自分の体験をまとめた本を出しますが、それ以外は取材に応じることは少なく、晩年はすべてを拒否していました。
【元徳島新聞論説委員長 岸積さん】
「ゆっくりお話しして、色々お聞きしたいことがあるんだと言ったら、そういう話について私はもう今までみんな断ってきた。生きていて私が話をするとまだ迷惑をかける人がいるんですよと。迷惑をかける、つまりしゃべってはいけないことがあるんだと」
【元徳島新聞論説委員長 岸積さん】
「人間は一生話したくないことだって誰にでもあると」
多くを語ろうとしなかった酒巻さん。帰国してすぐに、訓練当時泊まっていた旅館を訪ねていました。
【岩宮旅館 山本恵子さん】
「今日は一人だから2階へ泊まられたらと祖母が言ったと思うが、『別館にみんながいるからむこうに泊まる』と言われた時はホロッとしたそうです」
酒巻さんの本には後悔の思いも綴られています。9軍神と出撃したあの日、酒巻さんの潜航艇には重大な故障がありました。それを知りつつ進み続け、その結果、稲垣清二等兵曹は死亡しました。酒巻さんにとっては、唯一、戦場をともにした人でした。
【酒巻和男さんの弟 松原伸夫さん】
「自分の長男にキヨシという名前をつけている。これは一緒に乗っていた稲垣清さんの名前をつけているんです。それだけ思わんことは無い、申し訳ないという気持ちがあるけど、口に出して人に言うというのでもないし、といって人に言っても感情の問題、心の問題。でも、そういう事実がある」
【酒巻和男さんの長男 酒巻潔さん】
「なんでキヨシにしたのかと言ったときに読んで字のごとく『潔し(いさぎよし)』そう言われた、親父に。それだけです。だからそれの深い意味合いとかそういうものは知りません」
【酒巻和男さんの長男 酒巻潔さん】
「事実は分からないが最近は、稲垣キヨシのキヨシを背負っているのかなと思うようにはなってきましたけど。事実は分からない」
1991年、酒巻さんは稲垣さんと一緒に乗っていた特殊潜航艇に50年ぶりに再会します。その8年後、81歳で亡くなりました。戦後はビジネスマンとして活躍し、捕虜第一号という運命を背負いつづけた人生でした。
【酒巻和男さんの長男 酒巻潔さん】
「戦争で役に立ったとかどうのこうのではなくて、捕虜になった人と一緒に考え、一緒に生きてきたことが大きな功績じゃないかなと思う」
(関西テレビ「ゆうがたLIVEワンダー」2015年8月13日放送より)