20代の記者が見る戦争 終戦の前日、大阪城周辺に爆弾の雨が降った… 巨大兵器工場を狙った『京橋空襲』 当時12歳の体験者が語る【夏休みに振り返る#戦争の記憶】 2023年08月14日
1945年8月14日、終戦前日に大阪を襲った大空襲がありました。空襲は、兵器工場・大阪砲兵工廠を中心に周辺にも及び、一般市民も多数犠牲になりました。当時の状況を知る人は戦後長い年月をへて、何を思うのでしょうか。戦争を知らない20代の記者が取材しました。
照屋盛喜さん(87)。毎年8月14日に行くところがあります。
大阪市都島区のJR京橋駅近くで行われる「京橋駅空襲慰霊祭」です。照屋さんは“あの日”に思いを寄せていました。
【照屋盛喜さん(87)】
「暑かったですよ、あの日も。『平和で自由で日本をええ国にしました。安心して眠ってください』と報告に来ました」
75年前、終戦前日に大阪は最後の空襲を受けました。「大阪砲兵工廠」が標的となった空襲でした。
「大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)」とは、大阪城の東側にあった、明治時代に作られた軍直轄の兵器工場です。創設以来、徐々に規模が拡大され、大量の兵器が生産されていました。太平洋戦争の末期には大阪城の周囲から現在の森之宮や周囲のビル群の辺りまで広がる大きな工場群となりました。最盛期には6万人が働く「東洋一の兵器工場」と称された場所です。
大阪砲兵工廠への攻撃は、周辺の街を巻き込みました。すぐ近くの国鉄京橋駅にも「流れ弾」の1トン爆弾が落ちました。
照屋さんは「学徒動員」として京橋駅近くにあった船舶の部品工場で働いていました。すさまじい爆撃で、目の前には悲惨な光景が広がっていきました。当時12歳でした。
ーーQ:ここで見た?
【照屋さん】
「真正面に京橋駅が見えて、ものすごい煙が空に上がっていました。京橋の駅がなくなってしまった。戦争は考えられないことが平気で起こるんです」
爆弾は高架を突き破って片町線のプラットホームを直撃。この空襲による犠牲者は、身元が分かるだけで約200人、実際は600人近くに及ぶと言われています。
ホームの下には遺体が積み重なり、照屋さんはひたすら遺体を空き地に並べる作業を手伝いました。
【照屋さん】
「手だけとか足だけとか、人間のパーツをすぐ素手で触れた。遺体とか血とか油は、全く嫌悪感がなかった」
ーーQ:どうして?
【照屋さん】
「頭の中が空白。真っ白けに。気持ち悪いより、ずるずるになるので手で持っても頭が滑って困ったのを覚えています」
■戦争を知らない私たち
今、駅周辺を歩く若い人達に、空襲について聞きました。
ーーQ:(京橋駅の周辺で)数百人の方が亡くなっているのを知っていましたか?
【20代女性】
「知らないです。過去の方、大変な思いをして、食べるものとか困って生活していたと思うと胸が痛む」
【30代男性】
「ほとんど知らない。(慰霊碑の)千羽鶴などの飾り付けは見たけど。内容などは全然。また見て、頭下げておきます」
【照屋盛喜さん(87)】
「戦争がやっぱり残っていますね。かけらもないように見えるけど、知っているものが見たら見えるんですね、戦争の跡が」
■どうして戦争を忘れてはいけないのか
【照屋さん】
「子どもの時にお父さんいなくなったらどうします。そういうことを考えると戦争は何があってもあかんな。75年が戦争なしで来られたのは、どれぐらい日本人は幸せなのか」
照屋さんと妻の美江さんに「楽しいと思う瞬間は?」と聞きました。
【妻・美江さん(85)】
「あれがね、ピンクが私。この子が第一番のひ孫」(写真を指差して)
【照屋盛喜さん(87)】
「ひ孫の話をしている時はケンカしないんですよ」
戦争の経験が、今の幸せの重みを感じています。
終戦から「75年」。戦争を体験した人の高齢化が進み、追悼式典では来年以降の運営について、ことし初めて話し合いをすることにしています。
ーーQ:(戦争を)知らない世代に伝えられていなくて伝えたいことは?
【照屋さん】
「人間として生きるために平和がどれぐらい幸せなのか。平和を維持して欲しい」
ーーQ:維持が求められる?
【照屋さん】
「そうですね」
戦争の時代を知る世代と、知らない世代。悲惨な経験をしていない私たちが戦争とどう向き合うかが問われています。
(取材:鈴村菜央 関西テレビ「報道ランナー」2020年8月14日放送より)