「軍都」だった大阪の中心…大阪城周辺に広がる巨大な兵器工場群 終戦の前の日に大空襲が襲った 今は廃墟となった工場遺構にカメラが入る【夏休みに振り返る#戦争の記憶】 2023年08月13日
1945年8月14日。大阪を襲った空襲。標的となったのは大阪城周辺にあった巨大な「兵器工場」でした。終戦前日に「軍都大阪」を襲った悲劇を見つめます。(2020年8月放送)
■大阪城に残る「戦争の跡」
【大阪の平和ガイド 森田敏彦さん(77)】
「ここに1トン爆弾がバーンと落ちた。その衝撃で、ああいう形で石垣の石が、ものすごい歪んでしまった。すごい爆風で、半径1kmぐらいに破片が飛び散るぐらいの、ものすごい大きな威力を持っている」
戦争の悲惨さを知ってほしい…その思いから、森田敏彦さんはボランティアガイドとして、大阪城に残る戦争の跡を伝えています。
【森田さん】
「ガイドや専門家から聞いていただかなければ、こんな物が残ってるっていうのは、あまり皆さんお気づきでないと思う」
■空襲で標的になった「東洋一の兵器工場」
明治時代、大阪城の東側に軍直轄の兵器工場が作られました。その工場は「大阪砲兵工廠」と呼ばれ、戦争をすすめるにつれ規模を拡大。分業化した工場では兵器の大量生産が行われました。
太平洋戦争の末期には大阪城の周囲、現在の森之宮やビル群のあたりまで…その広さは40万坪にまで及びます。工場が立ち並び、最盛期には6万人が働く「東洋一の兵器工場」と称されたのです。
それゆえに、アメリカ軍は、空襲で徹底的に破壊しました。その空襲が行われたのが、終戦の前日、8月14日でした。
わずかな名残りが、大阪城公園の外れにあります。
【森田さん】
「化学分析場ですね。大阪砲兵工廠に残る貴重な遺構です。これ以外に建物は残っていません。1つの『モノを言わない語り部』として、戦争を伝えていく手がかりです」
大正時代に建てられた「化学分析場」。いまは廃墟となって、公園の北端にひっそりとたたずんでいます。
大阪砲兵工廠は大砲や戦車など、陸軍が使用する大きな兵器の製造を担っていました。その兵器は、海を渡った戦闘で多くの命を奪ったのです。
■学徒動員…「中学3年生」で砲兵工廠への空襲を経験
学徒動員で、砲兵工廠に通っていた梅原重信さん(90)。機雷を製造していました。
【学徒動員で大阪砲兵工廠で働いていた 梅原重信さん(90)】
「砲兵工廠は、中学3年生になってすぐに動員がかかって、行くようになったんです。何の技術もない。『ないけど、やってください』や。僕らだって知ってますよ、砲兵工廠が1番危ない。あんな所に行ったら、絶対死ぬでと。同級生が40人くらいおったと思うんやけど、『行くの怖い』とか、『嫌や』とか言うやつは1人もおらんかったです」
8月14日、昼過ぎ。そのおそれが現実となりました。
【大阪砲兵工廠で働いていた 梅原さん】
「100機くらいの編隊が来るんやで。本当に上見たら飛行機ばっかりよ。それがブワーン、ブワーンって飛ぶんよ。上からザーッと銀色のが、バーッて降ってくんねん」
「『空襲警報鳴ったから防空壕入りや』って言われて、皆一斉に防空壕へ入ったんや。そしたら、ドーン、ドーン、ドーンって言いだしたんや。それでお腹の中から、胃が飛び出しそうやった。ドーン!って言ったら、バーンってくるんや」
大阪砲兵工廠を標的とした空襲で、工場では少なくとも382人が亡くなりました。
【梅原さん】
「屋根も何もあらへんし、皆こないになって、こないになってる所へ、人の手やら、何やら服やらぶら下がってるから、他の防空壕に入った人らは皆やられたんや。探しに行くとか、助けに行くとかっていう気が全然起きひんかったわ。ほとんど記憶がないんです。十三の駅まで歩いたんやけど。どうなってたんか、全然分からん。『もう少し気を利かして、防空壕の中に埋まってる人ら助けたったらいいのにな』って思ったんは、もう何十年もたってからや」
■数少ない遺構「化学分析場」
200以上の工場が立ち並んでいた、兵器工場の跡かたは戦後の復興とともに消えてゆきました。
約100年前に建てられ、戦禍と、取り壊しを免れた「化学分析場」。終戦後は自衛隊などが使用していましたが、現在は放置され、廃墟となっています。
今回、閉ざされた内部に特別に許可を得て、カメラが入りました。
壁や天井は崩れ落ち、危険な状態となっていました。物置には、化学薬品の名称や「分析」と書かれた文字が、かすかに残っています。
数少ない遺構である「化学分析場」を管理する近畿財務局は「具体的な活用方法などは未定」としています。
【 梅原さん】
「やっぱり僕としては、当時の惨状っていうのを少し残しておいてほしかった。こないなったやつ。あったんやっていう証やな。もう本当に戦争とか、空襲にあってつらかった思いをした人っていうのは、本当に少ないと思いますね。『戦争には、こんな惨めなことがあったんや』、『戦争はやったあかん』や。『悪い』やなしに、『やったらあかん』それは言いたい」
当たり前に広がる平和な日常。しかし、ここは終戦の前日まで兵器を作り続け、空襲で多くの命が失われた、まさにその場所です。
(関西テレビ「報道ランナー」2020年8月14日放送より)