「では笑って征きます」兄を特攻で失った弟 「30分後出撃」のはずが生き残った元特攻隊員 『特攻』を知る人たちが伝えるメッセージ【夏休みに振り返る#戦争の記憶】 2023年08月11日
太平洋戦争末期に日本軍によって行われた「特攻」。作戦で犠牲となったのは、ほとんどが10代や20代の若者たちでした。特攻で亡くなった家族への思い、そして出撃直前に中止となって生き残った人だからこそ伝えられるメッセージがあります。
■鹿児島・知覧にあった「特攻隊」の基地
鹿児島県南九州市の町、知覧。70年前、ここに「特攻隊」の基地がありました。
毎年開かれている慰霊祭で、今回、遺族代表として弔辞を述べたのは、和歌山県美浜町の小松雅也さん(84)です。
【小松雅也さん(84)】
「御堂と一体的に素晴らしい景観が保たれ、あの戦火し烈を極めた特攻基地のあった所とは思えない静けさと、平和なたたずまいを見せております」
■特攻隊員だった兄 アメリカの軍艦に突っ込み 22歳の若さで生涯を閉じる
特攻隊員だった兄・中西伸一さん。時がたつにつれ、小松さんは、戦争のない日本を知らずに逝った兄の無念さを思うようになりました。
【小松さん】
「当時はそういう世の中であったので、国のためということで逝かれたので、兄は満足してると思うんですよ。しかし今、生きていれば91歳ですかね。戦争がなかったら、兄もまだ生きて、孫やひ孫に囲まれて楽しい人生を送られたのになと思うんですけれども」
太平洋戦争末期、戦況が悪化する中、日本軍が行った「特攻」。爆弾を積んだ飛行機などでアメリカの軍艦に体当たりするこの作戦で、約6400人が犠牲になったと言われています。二度と戻らぬ覚悟を決めて飛び立っていった特攻隊員たちの多くが10代から20代の若者たちでした。
和歌山県美浜町で小学校の教師をしていた伸一さんは、「国の役に立ちたい」と、教師を辞めて陸軍に入隊。その後、自ら特攻隊に志願しました。
【小松さん】
「父は、『そうか、よかった』と一言、言っていました。母がそばで、『伸一、手柄を立ててよ、手柄を立てんとあかんで』っていうことを大きな声で盛んに励ましていました。息子が国のために役立ってくれるのがうれしかった。それが“誇り”だったんでしょうね、親としても。親たちもそういう教育できているから、それが普通な、当たり前の道であったんです」
伸一さんが家族に宛てた最後の手紙には、「では 笑って征(い)きます」と書かれていました。
終戦の3カ月前、伸一さんは沖縄の海でアメリカの軍艦に突っ込み、その生涯を閉じました。22歳の若さでした。戦死の知らせを聞いた時、母・時代さんは涙を見せず、「手柄を立てた」と喜んだといいます。
しかし、月日がたった33回忌の時、母が突然、墓石にもたれかかるようにして泣き崩れました。
【小松さん】
「僕はびっくりした。今まで何事があっても泣かなかった母がどうして泣くんやろう?と。『どうしたんや?』と母に尋ねたら、『伸一は今まで天皇陛下にあげた子やったんじゃ、日本の国にあげた子じゃったんじゃ。この33回忌でやっとわしの子になった』と言って、またワーッと大声で泣き崩れてしまったんです」
小松さんが初めて聞いた、母の思いでした。
■九死に一生を得た元特攻隊員 自らの経験を語り継ぐ
戦争は、その先何十年と続くはずだった若者たちの人生を奪いました。
91歳の粕井貫次さん。70年前の当時、海軍の特攻隊員でした。
【粕井貫次さん(91)】
「自分の父母兄弟が殺されるかも分からん。そういう時に自分が先に犠牲になって、少しでもそれを防がなきゃならんという気になるのは当然だと思うんです」
粕井さんは、講演会などで特攻隊の経験を語り継いでいます。当時21歳だった粕井さんは鹿児島県内の基地に所属していました。終戦5日前、突然その時がやってきます。
「沖合で敵の船らしきものを発見。3時間後に出撃するから待機せよ」と命令が下されました。
【粕井さん】
「張り出された搭乗割を見ると私が一番機になってる。偵察機から次の情報をずっと待ってるわけですよね。すると突如、攻撃3時間待機を『30分待機に変更』ってきたんですね」
次に出された命令は「30分後に出撃」ということでした。遺書を書く時間さえありませんでした。
【粕井さん】
「ああ、いよいよ俺の番かなっていう。俺の死ぬ番やなって。刻一刻と時間が過ぎていくわけです。日がずっと暮れかかってくる。ぽつりぽつりと雨模様。どうなのかなって思った時に、『出撃30分待機解除、3時間待機に移す』ってなったわけですね」
結局、敵の位置が分からず、天候も悪化したため、その日の出撃は中止になりました。そのまま終戦を迎え、粕井さんは生き延びたのです。
【粕井さん】
「終戦になった時はね、もう魂が抜けてしまうというかね。いわゆる、ふ抜けになるっていう状態。なんかね、命が助かったって実感が全然ないですね。ふ抜けになったっていう感じですね」
一方で、共に訓練していた海軍の同期生、約450人が特攻で命を落としました。終戦後、自分が生かされた意味を問い続けてきた粕井さん。仕事に打ち込み、必死で生きてきました。
■「せっかく与えられた命だから、やはりその命を大切にしていこう」
73歳で仕事を引退してからは、大学院に通ったり、太極拳を習ったり、やりたいことはなんでもやってみることにしています。日々、大切にしているのは、生きていることへの感謝です。
【粕井さん】
「戦争で生き残ったから、せっかく与えられた命だから、やはりその命を大切にしていこうってなりますね。生かされた人生を精いっぱい、欲深く生きようって思うんですなあ」
特攻隊に入ったあの日から70年。今では3人の子どもと、10人の孫、そして7人のひ孫にも恵まれました。みんな、粕井さんの背中を見て育っています。
【粕井さんの次男 隆さん】
「国のためっていうか、今の時代でいうと世のため人のため、お客さんのためっていう感じですか。それは親父から教えられたことですね」
【粕井さんの孫 健次さん】
「『おじいちゃんはお前の年にちょうど海軍に入って』っていう話は、年齢ごとにそういう話は聞いたりしましたね。これだけ何もない平和なことってすごいことなんやなって思います」
【粕井さんの孫 広瀬さやかさん】
「おじいちゃんが特攻で生き残ってくれたからこそ、この子たちもいるわけで。最近、子どもが生まれてからその実感が、そのおかげでここまで家族みんないるんだなってすごく思います」
70年前、家族のために特攻に行こうと決めました。生かされたからこそ、伝えられる思いがあります。
【粕井さん】
「子孫に対しては、何かの時に、大じいちゃんはこういうことをしたけれども、こういう思いでやったなってことが、何らかの心の糧になるような、生き方、あり方をしたいなって思っています」
(関西テレビ「ゆうがたLIVEワンダー」2015年8月5日放送より)