4年に一度の聴覚障害者スポーツの祭典「デフリンピック」。2025年の開催地が東京に決まりました。“ろう者のオリンピック”とも呼ばれる大舞台に、各国のアスリートたちが集います。 ※「デフ」…聞こえない人、聞こえにくい人
関西ゆかりの選手たちの思いを、シリーズでお伝えします。
■2013年 卓球女子シングルス金メダル 南方萌さん(33)
23歳の時、デフリンピックで金メダルを獲得した南方萌(みなかた もえ)さん(旧姓・上田)。それから9年あまりが過ぎました。今年は、夫の単身赴任に合わせて京都府舞鶴市の実家に里帰り。幼い2人の子育てに奮闘する毎日を送っていました。
(写真:3歳 の長男と 1歳の長女 2022年11月)
【萌さん】
「毎日怒ってます。長男が遊んでいるおもちゃを妹が必ず取るから、ケンカやめてって。つい感情的に怒ってしまって、あとから自己嫌悪に陥ることもあります。でも、自分が耳が聞こえないから申し訳ないっていう気持ちは、あまりないです」
“あの時”の彼女には、言えなかった言葉でした。
■“音のない世界”を卓球と一緒に生きてきた
萌さんは、生まれつき音が聞こえません。
幼少期は地元のろう学校で学び、中学生になってからは聞こえる人たちと同じ一般の学校に通いました。相手の唇の動きから言葉を読み取って会話をしていましたが、それはもちろん、簡単なことではありません。そんな萌さんのそばにいつもあったのが、卓球でした。
【萌さん(2005年 当時16歳)】
「話すことが難しくて、なかなか友達とコミュニケーションがとれなかったけど、卓球でラリーを続けているときは、まるで相手と心が通じ合っているように感じた」
相手と球を打ち合う卓球のラリーは、「会話」のようでした。
高校生の時には、インターハイにも出場するなど、聞こえる人たちの世界でも第一線で活躍しました。
(写真:2006年インターハイ)
■理解できなかった友達の言葉 「めんどくさい」と思われたくなかった
いつも笑顔で明るい萌さんは、たくさんの友達に囲まれていました。しかし、笑えば笑うほど、周囲は彼女が“音のない世界”にいることを忘れてしまいました。
大人数の会話で口元を追えなくなると、萌さんには友達が何を話しているのか分かりません。
【萌さん(2008年 当時18歳)】
「話が分からなくても、ずっと愛想笑いをしていた。笑うことで、自分をごまかしていた。みんなと同じように、空気中に流れているたくさんの会話を知りたい」
なんで私だけが聞こえないの?感情のコントロールができなくなり、みんなの前で突然泣いたり、怒ったりするようになりました。もう消えてしまいたいと思い、あてもなく街をさまよったこともあります。
高校3年の時、萌さんはそんな思いを原稿用紙につづりました。
(写真:萌さんが書いた作文 タイトルは 「音」)
「みなさんは、音のない世界を知っていますか?」
笑っていたのは、みんなの会話を邪魔したくなかったから。しつこく聞いて「めんどくさい」と思われたくなかった。周りの人たちが信用できなくて、そんな自分も嫌いだった。私にも、もっと情報がほしいー。
勇気をもって言葉を紡いで、クラスメイトの前で発表しました。するとみんなが、自分の方を向いてゆっくり話してくれるようになりました。
作文は、こう締めくくられています。
【高校3年の時の作文より】
「今は、全ての人に“音のない世界”を理解してもらうことは難しいけど、いつかきっと分かり合える世界が来ることを願って、卓球をがんばり続けようと思います」
■初めてのデフリンピックは、頂点まで『あと一本』
萌さんは、東京の大学に進み、アテネオリンピックで日本代表の監督を務めた西村卓二氏の指導を受けます。そして大学2年の時、台湾で行われたデフリンピックに初出場。総勢245人の日本選手団のキャプテンも任されました。
(写真:2009 年 台北デフリンピック開会式)
女子シングルスでは、準々決勝で優勝候補の中国選手を破る快進撃。決勝でも、中国の選手を相手にフルゲームのデュースまでもつれこむ熱戦を繰り広げましたが、最後のスマッシュがネットに阻まれ、銀メダルに終わりました。
■悩みもがいて・・・2度目の挑戦で『金メダル』
大会が終わるとすぐに、4年後をめざす日々。休む間もなく、卓球、卓球、卓球・・・。恋愛もおしゃれも二の次の生活でした。次は必ず金メダルーそんな周囲の期待に押しつぶされて、大好きだった卓球をやめたくなったこともあります。
(写真:厳しく接する父・弘樹さん 2010年)
大学卒業後は一般の企業に就職し、実業団のチームで練習に励みました。自分よりも実力のある日本のトップ選手たちが、自分と同じように悩み、自分よりも努力する姿を見て、迷いがふっきれました。
(写真:2013 年 ソフィアデフリンピック決勝)
そして2013年、ブルガリア・ソフィアで行われた自身2度目のデフリンピック。誰かのためではなく、自分のために戦おうと心に決めていました。初戦から順当に勝ち進むと、決勝では過去に2度敗れているロシア選手との接戦を制して、ついに金メダルを獲得しました。
【萌さん (2013年 当時23歳)】
「一番上の舞台で勝つことができて、すごくうれしいです。もうやり残したことはないです。最後の最後に金メダルをとることができて、良かったです」
■現役を引退し、母親になった今、願うこと
翌年、18年間の現役生活にピリオドを打った萌さん。その後、職場の同僚と結婚し、2人の子どもを出産しました。
言葉をうまく理解してあげられず、行き違いが生じて子どもが癇癪を起こすこともありました。何が正解か分からない子育ては、想像以上に大変です。ただ、あの時の暗い渦のような感情は、今の萌さんにはありません。
【萌さん】
「ママは耳が聞こえないから、ちゃんとお顔を見て話してねっていうのは、こまめに言うようにしています。(長男は)3歳になる手前から、私の顔を見て話してくれるようになりました。私が聞こえたら分かってあげられるのにとか、そういうのは思わない。聞こえない親の元に生まれたんだから、仕方ないぐらいに思っています」
(写真:顔を見て話す長男 “親子だけの手話”も作った)
正直に、勇気を出して伝えることで道は開ける。生きやすくなる。それは、萌さんが身をもって学んできたことです。
2025年に、東京でデフリンピックが開かれることが決まりました。かつては生活の全てを卓球に捧げていたからこそ、子供2人を育てながら挑戦することは考えていません。でも「音のない世界を知ってほしい」という願いは、強く持ち続けています。
【萌さん】
「色んな人にデフリンピックを知ってほしいという気持ちは、ものすごくあります。デフリンピックが広まることで、音のない世界のことも知ってもらえる。ひとりでも多くの人に知ってもらうことで、生きやすくなるんじゃないかなって。たとえば日常生活の中でマスクを取って話してもらえるとか。お願いしなくても自然とやってもらえるような、それが当たり前の社会になってほしいなって、思います」
(取材:関西テレビ報道センター 深田大樹)