67年ぶり“里帰り”した「広島大仏」秘話 爆心地を見つめた大仏様…なぜか今、奈良に 住職の“10年かけた”思いのプロジェクト実る! 400キロの大仏を300キロ離れた広島へ 当時、少女だった91歳女性とも再会「あの時…生きる力くださった」 2022年08月09日
1945年の8月6日、広島に原爆が投下され大勢の人が亡くなりました。その爆心地のすぐそばで、人々や街が“復興”する姿を見守り、「広島大仏」と親しまれた大仏がありました。
しかし、いつのまにか行方不明になり、なぜか今、奈良のお寺に安置されています。
奈良・安堵町のお寺の住職の思いで始まった10年がかりの一大プロジェクト“「広島大仏」の里帰り”に密着しました。
■原爆投下から77年…“鎮魂の祈り”の広島 爆心地近くでその名も「広島大仏」の法要
8月6日、原爆投下から77年。
広島の平和記念公園で黙とうが行われました。
鎮魂の祈りに包まれた広島の街。
爆心地のすぐ近くにある「おりづるタワー」で、ある法要が営まれました。
そこに安置されている大きな仏像。
かつて「広島大仏」と呼ばれていました。
【奈良県・極楽寺 田中全義住職】
「現在の平和があるは復興者の雨だれ石をうがつ努力によるものなり」
「いつかは里帰りさせたいと発願し11年」
法要で言葉を述べているのは、奈良県安堵町にある極楽寺の田中全義住職(36)。
広島の人々とともに、特別な思いで”この時”を迎えていました。
■奈良のお寺になぜ、広島大仏が!? 偶然立ち寄った古本屋がきっかけ 大仏の意外な” 過去”を知る
奈良県安堵町は、人口およそ7000人。
この町にある「極楽寺」。
田中さんはこの寺の住職をつとめています。
極楽寺のシンボルは大仏さん…高さ3メートルの阿弥陀如来像です。
先代の住職をつとめた田中住職の祖父が17年程前に知人から譲り受けたそうです。
【極楽寺 田中全義住職】
「(祖父は)広島から来た大仏って言ってましたね 『広島から来たんや』って」
田中住職は仏像の由来について調べましたが、“広島から来た”としか分かりませんでした。
しかし、その後、偶然立ち寄った古本屋で”意外な過去”を知ることに。
【極楽寺 田中全義住職】
「何気に手に取った一冊がこの本(『ヒロシマの記録 被爆40年写真集』)だった。こちらの写真が広島大仏です。仏さまを水牛が引いて、やぐらのようなものに(大仏さんが)花飾りされて。広島市が行った復興パレードの真ん中に大仏さんがいる。なんとなく仏さんの顔が『あれ?』っていう感じやって。なんか(極楽寺の大仏に)すごい似てるんです、どう考えても」
住職が専門家に鑑定してもらったところ、傷などの特徴が一致し、極楽寺にある仏像がかつての「広島大仏」であることが判明しました。
戦後まもなく、原爆ドームの近くに建てられた寺に安置されていた広島大仏。
原爆で何もかもを失った町での“復興のシンボル”として市民の心の拠り所となっていました。
【極楽寺 田中住職】
「食べるご飯ですらなかなかありつけなかった人もいる戦後の状況で、あれだけのお堂が建てられたというのは団結していた気持ちがある。きっとみんな一人一人がちょっと無理をしてできたお堂である。”みんなで手を取り合う”というこのエネルギーは、日本人の誇りやなって思いますね」
しかし、1955年に別の寺に譲渡されて以降、行方が分からなくなり、人々の記憶からは忘れ去られていきました。
広島大仏とともに復興をめざした歴史を伝えたいという思いから、田中住職は大仏を広島に「里帰り」させようと、10年前から動き始めました。
そして新型コロナや資金面の壁を乗り越え…今年、ようやく実現できたのです!
■400キロの巨体が、300キロ離れた広島にいよいよ”里帰り” 田中住職「喜んでおられる」
広島大仏が運び出される前日に、極楽寺では、広島大仏の出発を祝う法要が営まれました。
多くの人が参列し、手を合わせていきます。
地元の小学生たちも折り鶴を手に訪れました。
広島大仏が極楽寺を離れるのは初めてのことです。
法要が終わった夜、大仏をじっと見つめる田中住職の姿がありました。
【極楽寺 田中住職】
「もううれしいですね。ここで『寂しいです』って言いたいんですけれど、今はもう10年(里帰りを)目指してきたので…不安な気持ちは一切ないです」
――Q:今大仏さんのお姿見てどうですか?
【極楽寺 田中住職】
「笑っておられますね。なんか笑っているように。大仏さんも仏さん、仏さんって言っても人間と一緒で心を持っているので。久しぶりに故郷に帰るのは絶対うれしいですから喜んでおられると思います」
いよいよ運び出しの日を迎えました。
「はい回します ゆっくり~」
胴体を布で包んだ大仏が、ゆっくりと回ります。
大仏の重さはおよそ400キロです。
そして、大仏を後ろに慎重にゆっくりと倒し、頭と胴体を離します。
頭と胴体と足の3つの部分それぞれを布で包み、運び出していきます。
そしてトラックに積み…およそ300キロ離れた広島へと出発しました。
■67年ぶり”里帰り”果たした広島大仏 「心の支えだった…」 当時19歳女性と久しぶり再会も
平和法要には里帰りに賛同した僧侶が宗派を超えて集まりました。
広島大仏が広島で原爆の日を迎えるのは67年ぶりです。
この日、広島大仏をひと目見ようと訪れた女性がいました。
【広島大仏と“再会”した梶本淑子さん】
「あ~!わ~懐かしいですね。本当にお久しぶりですね」
大仏の前で手を合わせているのは、広島で被爆した梶本淑子さん(91)。
【梶本さん】
「やっぱりこれやこれ」
広島大仏がいた寺の前で撮影した1枚の写真に写っていた少女です。
当時19歳でした。
【梶本さん】
「悲しかったり腹が立ったり怒られたりしたらあそこにいって泣いて帰ったり、時には(大仏殿に)あがっていって『来たよ~』とか言ったりして。身近に”大仏さん”というような感じだった。私にとってはすごく親しい感じ」
梶本さんは、14歳の頃、爆心地から2.3キロ離れた工場で被爆しました。
今は「語り部」としてあの日、経験したことを伝えています。
【梶本さん】
「目の前で『水水』と言いながら、いっぱい亡くなっていく人をいっぱい見たんです。みんな後悔しました。こんなに早く死ぬなら一口だけでも水をあげればよかった。広島(市)の人口35万人いたんですね。それが年末までに14万人亡くなった。14万と言って一束にされてはいけない。ひとりひとりに名前があって、家族があって、一生懸命生きていました」
目の前でたくさんの人が亡くなっていく現実。
そんな状況だったからこそ「広島大仏」は心の支えでした。
田中住職と梶本さんが大仏を前にして話していました。
【極楽寺 田中住職】
「つらい思いをされた方は大勢いると思うんですよ。この中にも」
【梶本淑子さん】
「みんなですよ」
梶本さんが当時、「広島大仏」に抱いていた思いを話してくれました。
【梶本さん】
「ここに来ると優しくなれる。親もいないから頼る人もいない。大仏さんがなぐさめてくれたり生きる力も下さったと思います」
戦後、多くの人々にとって心の拠り所となっていた「広島大仏」。
奈良から300キロ離れた故郷・広島にようやく帰ってきました。
67年ぶりに広島の街を見つめます。
※「広島大仏」はこの後、およそ2カ月間、広島各地を巡り、奈良に戻る予定です。
(2022年8月8日放送)