5月15日、沖縄は復帰50年の日を迎え、沖縄と東京で記念式典が同時開催されました。
明るい南国のイメージの一方で、今なお在日アメリカ軍専用施設の7割が集中している沖縄。
今では、沖縄がアメリカの統治下にあったことなど知らないという人も多くなっていますが、この50年は矛盾や負担を背負ったまま、歩み続けた月日でもありました。
ビーチで地元の人に話を聞くと…
【家族連れの女性】
「自分の出身の小学校、中学校は基地に隣接していて、フェンスの向こうに外国人さんが走っていてコミュニケーション取るようなところだったので。親になると、子供がそういう環境っていうのは…事故とか考えると怖いです」
【孫を肩車した男性】
「うちの孫でもオスプレイが空飛ぶと震えるのよ。かと言って(基地を)どこに持っていくのかもあるし、いくらここで叫んでも届くわけでもないし…」
復帰から50年を迎えた、沖縄の現実を取材しました。
■50年前 沖縄が「アメリカ世(ゆ)」だったころ
【新実彰平キャスター】
「私たちにとって観光地のイメージの強い沖縄ですが、50年前まではアメリカの統治下にありました。その時代のことを、沖縄の方は『アメリカ世(ゆ)』と呼んでいます」
年間1千万人以上の観光客が訪れる沖縄が「アメリカ」だった時代とは…
【復帰当時のニュース】
「アメリカの支配から解放され47番目の県として沖縄は生まれ変わった。商店街にはドルと円の換算表が掲げられ、買う人も売る人も換算表とにらめっこの面倒臭い世替わりに直面した」
1972年の5月15日に日本に復帰した沖縄。
戦後27年間は、日本から切り離されアメリカの統治下にありました。
本土への渡航にはパスポートが必要で、通貨は、米軍が発行していた「B円」と呼ばれる軍票。
やがてアメリカドルも使われるようになり、復帰の際にはドルから円への交換に追われる人々の姿がありました。
【復帰当時24歳だった人】
「計算するのが大変だったね、ドルから円。大変でしたよ」
【復帰当時29歳だった人】
「ドルが使い慣れてたからね、1ドルで1日遊べたの、あの時は。円になってもいつもドル、ドルって計算してた」
車もアメリカ式の右側通行でしたが、復帰6年後の7月30日に左側通行に変更されました。
通称「730(ナナサンマル)」。本土復帰を象徴する出来事の一つです。
■「アメリカ世」を知る店 交流の記憶
「アメリカ世」だった時代から、営業を続けている店を訪ねました。
【新実キャスター】
「復帰前から営業を続けていらっしゃる『ジャッキーステーキ』。全国からお客さんが来られるお店なんです」
1953年創業の「ジャッキーステーキハウス」。
嘉手納、那覇と米軍基地の近くに店を構えてきました。
【新実キャスター】
「いただきます…うん! うまい! 肉を食べているって感じ」
店内には「Aサイン」と呼ばれる営業許可証。
アメリカの基準を満たした店だけに与えられるもので、Aサインがなければ、米軍の関係者を相手に商売することができませんでした。
【新実キャスター】
「Aサインはどういう制度なんですか?」
【ジャッキーステーキハウス 藤浪睦子会長】
「衛生面とかそういうの。不意打ちで検査も来るんですよ。検査通らないとAサインがもらえないから、アメリカ人は入っちゃいけなかった」
【ジャッキーステーキハウス 伊波よし子社長】
「米軍許可証みたいな。ちゃんとしている店に入っていいっていう制度だった」
【藤浪会長】
「仕入れ先まで指定もありました」
当時から、ほぼ変わらないメニュー。
復帰後も英語表記のままで商売をしてきました。
【藤浪会長】
「外国人の方も優しかったんですよ、お友達になったりしてたんです」
【新実キャスター】
「プライベートな交流もあったんですね」
【伊波社長】
「『ペイデイ』って給料日の時はほんとにすごいんですよ。そういう時は皆さんいらっしゃるんで、気に入った女の人にラブレター書いて。もらった日本人は読めないから、うちの父が教えてあげていた」
【新実キャスター】
「アメリカ軍の関係者とのいい思い出もたくさんあるんですね」
【藤浪会長・伊波社長】
「そうですね…」
【伊波社長】
「基地はなくなってほしいなっていうのもありますし…今でも基地で働いている方達もいますから、複雑な気持ちではありますね」
■「“あなたの空”ではジェット機が飛ばないはず」
復帰後も、米軍基地とともに歩んできた沖縄。それを象徴する町があります。
【新実キャスター】
「沖縄市の『コザ』という地域です。ここを300メートルくらい行くと嘉手納基地があるんですが、街並みに目をやると英語の看板だらけで、異国情緒ただよう…そんな風情ですね」
かつて「コザ」という地名だった沖縄市。
嘉手納基地から延びる道はゲート通りと呼ばれ、独自の文化を作ってきました。
【新実キャスター】
「コザはどんな町ですか?」
【那覇市から来たミュージシャン】
「混ざってるんじゃない? ちゃんぷる~というか、いろんな文化が混ざってる町かなと思う」
コザでライブハウスを経営するレミーさんはカナダからの移住者です。
沖縄の文化に魅力を感じています。
【新実キャスター】
「お客さんは、沖縄の人も米軍の人も?」
【レミーさん】
「そうですね、けっこう混ざっています。日本のどこにもない文化ができているのが気に入っていて。いろんな所から影響されている地域は面白いことが生まれて、『ちゃんぷる~文化』のエキスがとっても濃い」
一方で、復帰前からゲートのそばでお店を営む店主にはこんな思いもー
【レストランバーを営む 屋良靖さん】
「ここ20年はなるべく米兵を入れないように営業してます。『円しか使えないよ~』って言い方で…。50年たって、日本に復帰した沖縄でも、その前に全国で考えないといけないのは、日米地位協定はなんなのか、元々から考えないといけない。あなたの空ではジェット機が飛ばないはずだから」
日米の文化が混ざり合う魅力を感じた一方で、基地と隣り合わせにある現実も突きつけられます。
■家々のすぐそばに…『世界一危険な基地』と隣り合わせの日常
普天間飛行場を見下ろす展望台があります。
【新実キャスター】
「ここからだとよく見えますね、アメリカ軍の普天間飛行場です。『世界一危険な基地』とも呼ばれますけれども、ここから見ると周りのマンションとか戸建ての住宅との距離がいかに近いか、大変よく分かります」
普天間飛行場がある、宜野湾市。
日常の中に「基地」があります。
【新実キャスター】
「(フェンスの向こうに)ありましたね、オスプレイですね…市民が入れる場所からオスプレイを見ることができるんですね」
【基地内をパトロール中の海兵隊警察】
「ダイジョウブ、ダイジョウブ」
【新実キャスター】
「(のぞいていても)おとがめなしでした…」
2017年12月13日、基地と隣接する普天間第二小学校の運動場に、アメリカ軍のヘリコプターから重さおよそ8キロの窓が落下しました。
小学校で、今年3月まで校長を務めていた知念克治(ちねん かつじ)さんに、話を聞きました。
【新実キャスター】
「どんな音がしたんですか?」
【知念さん】
「ドスンというすごい音がしたということで、爆風と・・・」
当時は体育の授業中で、風圧で飛んだ石に当たった児童が軽いけがをしました。
事故後3カ月間は運動場を使えず、その後もヘリが上空を通過するたびに、子供たちは避難をしていました。
【知念さん】
「ひどいときには1時間に7回、1年間で700回、避難命令が出た。子供たちが音聞いて、怖いと思ったら上を見て、危ないと思ったら避難しようと」
授業がままならないこともあり、現在は子供たち自身が避難の判断をするように。
毎年、事故の日に合わせて全校集会を行っていますが、この学校には1学年に数人、軍関係者の子供も通っています。
【新実キャスター】
「米軍関係のお子さんも一緒に考える場を持つというのは、伝え方の難しさもあるのではないですか?」
【知念さん】
「とっても難しくて…国籍を2つ持っているってことで、揺れ動く子供たちの文章を見たときに心が痛くなるっていうか」
【知念さん】
「誰かひとり悪者を作るってことじゃなくて、どうすればこういったことが解決できるかっていう方向性で子供たちに考えさせる。起こったことをどう改善するのかに重きを置くようになった。自分たちの地域を守るにはどうしたらいいかを考えられる子供に育ってほしいなと思っています」
沖縄戦からの歴史や、日米地位協定などを理由とした不条理も積み重なる中で迎えた、「復帰50年」の節目。
いまいちど、沖縄について考える日となりました。
(関西テレビ「報道ランナー」2022年5月16日放送)