持続可能な社会のために、2030年までに世界で達成を目指す目標「SDGs」。
今回は、10番「人や国の不平等をなくそう」と16番「平和と公正をすべての人に」に着目します。
■2021年、ウトロを襲ったヘイトクライム
およそ100人の在日コリアンが暮らす京都府宇治市の「ウトロ地区」。
去年、ヘイトクライムの標的となりました。
この地区の歴史を伝える「ウトロ平和祈念館」が、4月30日にオープンします。
開館にあたって、住民たちが込めた願いを取材しました。
2021年12月、京都市内で開かれた集会。在日コリアンらおよそ450人が参加しました。
【在日コリアン】
「住民や広く在日朝鮮人を卑下し死を望むコメント、誤った歴史的事実をもとに、朝鮮人民族を嘘つき呼ばわりするコメント(がありました)」
「隣にいる人たちがいつか私たちに攻撃を加えてくるのではないか、そのような不安に駆られています」
「ヘイトクライムのない社会をー」そう声をあげるのは、去年8月に起きた放火事件がきっかけでした。
在日コリアンが暮らす「ウトロ地区」で、倉庫などが焼けた放火事件。
逮捕された22歳の男は、動機を「在日コリアンへの憎悪」と供述。
そして、事件に関するネット記事には、犯行を称賛するコメントも相次ぎました。
ヘイトクライムの標的となった「ウトロ地区」では、月に一度、住民の集いが開催されています。
古い写真を見ながら和やかに話す住民たち。
しかし、笑顔の裏に苦難の歴史がありました。
■終戦で行き場を失った人々の“取り残された街”
戦時中の1940年代、日本政府が進めた「京都飛行場」建設のために、朝鮮半島出身者が雇われました。
終戦で建設は頓挫し、行き場を失った労働者とその家族たちはウトロ地区に住み続けました。
およそ30年前には、土地の所有者が住民らに立ち退きを求めて裁判に。
立ち退きを拒否した住民たちは敗訴しましたが、韓国政府や日本の支援者らが土地を買い取り、今もおよそ50世帯、100人の在日コリアンが暮らしています。
ウトロで生まれ、ウトロで育った田中三秩子(たなか みちこ)さん(76)。
田中さんの両親も、朝鮮半島から来た出稼ぎ労働者でした。
【田中三秩子さん】
「まともな家がない。夏になったらトタンが焼けて暑くて部屋の中にいられへん。中学生になったら魚のあらを取りに行かされたり、豚のえさを拾いに行かされたり、嫌なこといっぱいあった」
復興期にも上下水道などの整備がなされず、周囲から”取り残された街”となったウトロ。
上水道が整備されたのは、1988年になってからでした。
「ウトロには近寄らない方がいい」
今でこそ、そんなことを言う人は少なくなりましたが、それだけに放火事件は、住民たちに差別の根強さを痛感させました。
【田中三秩子さん】
「ウトロ、嫌いな人は嫌い。なぜか分からないけど嫌い。それは人種差別や。ウトロが嫌いとかではなく朝鮮が嫌いやねん。ちょっとでも人間って知らんより知っている方がいいやろ。(ウトロの歴史を)知ってもらって、何もウトロをええように思ってほしいんじゃなくて、なんで朝鮮の人がこっちに来て住んだのか、認めてほしいのもある」
■放火を乗り越えて…「祈念館」開館準備
「ともに手を取り合って暮らしたいー」そんな思いから住民と支援者らが建設を決めた「ウトロ平和祈念館」。
副館長を務めることになった金秀煥(キム スファン)さん(46)に、放火された倉庫の跡を案内してもらいました。
ブルーシートの下には、祈念館に展示する予定だった資料およそ40点が。
【金さん】
「焼けた看板の中でも、文字や絵が残っているものはここに保管してある」
「憎悪」によって失われた大切な資料。
その資料を通して、伝えたいことがありました。
【金さん】
「『在日が本当に苦労したんだよ、日本社会が悪いんだよ』というのではなく。住民たちの根本的な思いは、戦いたかったわけではなく仲良くしたかった。みんなの心が平和になってみんなが仲良くなれることを願う、そういうことを祈念するというので『祈念館』という名前にしています」
■“平和”の大切さをどう伝えるか…長崎へ
思いをどう形にしたらいいのか、模索する金さんは、去年11月に長崎を訪れました。
被害と加害の歴史だけでなく“平和”の大切さをどう伝えているのか学ぼうと、原爆資料館や平和公園に足を運びます。
平和公園には、地元の小学生たちの姿がありました。
【金さん】
「なんの勉強してんの?」
【小学生】
「平和の像を絵で表す」
【金さん】
「誰がやろうって言ったの?」
【小学生】
「みんなで」
【金さん】
「なんでこういうのやろうと思ったの?」
【小学生】
「平和のことに関して知りたいなって」
金さんの問いかけに、元気に返事をしてくれる小学生たち。
「平和のことを知りたい」その言葉に、金さんの目は潤みます。
【金さん】
「今回一番の収穫かもしれません。こういう施設があるから子どもたちも学ぼうという取り組みが行われる…」
■“韓国人”と“朝鮮人”、2つある慰霊碑
次に金さんが足を止めたのは「“韓国人”の原爆犠牲者慰霊碑」。
この慰霊碑のすぐ近くには、1979年に建てられた「“朝鮮人”の原爆犠牲者慰霊碑」がすでにあります。
しかし去年、韓国系団体などの要望を受けて、“韓国人”の慰霊碑が建てられました。
原爆が投下された時にはなかった「韓国」と「北朝鮮」。
韓国人と朝鮮人を分けた慰霊碑が存在することに、金さんは複雑な思いをのぞかせます。
【金さん】
「もともと施設内に朝鮮人の犠牲者の慰霊碑があるというのは長崎の特徴的な部分で、大事な意味を持っていたと思うんですけど、ことさらに韓国という枠組みにあてはめてこういうことが行われるというのは・・・。亡くなった方だけでも一つになれればと思います」
京都に戻った後、祈念館の展示内容について、ボランティアを交えての話し合いが行われました。
長崎で見た展示や慰霊碑の話をしながら、訪れる人々にどう伝えるのか試行錯誤しています。
「歴史を伝える」。そう一言で言っても、民族や国籍によって認識が異なる部分もあります。
「韓国人」「朝鮮人」「韓国朝鮮人」…朝鮮半島にルーツを持つ自分たちをどう表現するか、当事者の間でも見解が分かれる問題に直面していました。
【金さん】
「“在日コリアン”って普通の生活では言わないんですね。“在日”“朝鮮”“韓国人”とかそういう言葉を使うけど、第三者に話す場合は“在日コリアン”や“在日朝鮮韓国人”とか、普段使わない言葉を使う。社会において自分をどう表現するか悩みのワンクッションが入る」
「多分どっちでもいいやんって。なんでそんなことにこだわってんのって、悩んだことのないマジョリティー側はそう受け止めるだろうなと思う。変なことにこだわっているねって思う人もいれば、こういうことにも悩んでいるんだなと思う人もいて。そこの考えや評価についても分かれるんじゃないかなと思います」
悩んだ末、北か南かではなく、朝鮮半島出身者を広く表す“在日朝鮮人”と表記することに。
それは、住民たちが集う場所に記された、ある言葉が理由でした。
「ハンギョレバン(一つの民の部屋)」
ウトロでは“一つの民”として過ごそう。
そうやってみんなで生きてきました。
■ウトロの歴史を知ってほしい 開館に向ける住民たちの思い
ウトロでは、団結の思いを込めて朝鮮楽器を演奏してきた歴史があります。
朝鮮の文化を感じてほしいと、4月30日、開館の日に披露することになりました。
その中には、田中三秩子さんの姿も。
【田中さん】
「初めてやで私。当日はごまかしで…それでも頑張ってみようと思って」
これまで人前で披露したことはありませんでしたが、「ウトロの歴史をもっと知ってほしい」そんな思いから演奏することにしました。
そして、祈念館の展示品がそろった4月、ウトロ地区の住民たちへの内覧会が開かれました。
在日朝鮮人らが朝鮮半島から日本にやって来た経緯を伝えるだけでなく、日本と韓国の支援を得ながらウトロで過ごしてきた日々も描かれています。
10年前に亡くなった、在日一世の金君子(キム クンジャ)さんの部屋を再現した展示スペースも。
インフラ整備前、かまどを使っていた時代を生き抜き、“ここで生きていく”という尊厳を守り続けた女性でした。
久しぶりに見た君子さんの姿に、住民たちは思わず話しかけます。
【ウトロ地区の住民】
「ばあちゃん元気やった? ちゃんと家建ったで」
「ちっちゃい体で、人によく好かれてたな」
祈念館の外には、戦時中の労働者の宿舎である「飯場(はんば)」も移築・復元されました。
その中には、放火事件で焼けたシンクも展示されています。
■知ってもらうことで仲良くなれる 民族を越えた共生へ
朝鮮半島から日本へー様々な差別も受けましたが、ウトロの人々はいつもみんなで助け合って生きてきました。
今は、自分たちを支えてくれた日本人や韓国人に感謝の気持ちでいっぱいだといいます。
【田中さん】
「日本と朝鮮はすぐそこやし、できるだけ多くの人に見てもらって、理解してもらって仲良くしていきたい」
【田中さん】
「ウトロがこんなに有名になるなんて」
【金さん】
「いろんな運命のいたずらみたいな感じですね」
【田中さん】
「もうちょっと長いこと生きていたらどうなるかな」
民族を越えて手を取り合いたいー
ウトロで生きてきた人々の思いです。
(関西テレビ「報道ランナー」2022年4月27日放送)