■あの日の光景は今も…失った家族
【山下准史さん】
「やっぱり私には経験がないから、震災関連学習・防災学習なんて難しいなって思うかもしれません」
1月、神戸市で開かれた新人教師に向けた研修会。
講師の教育委員会の教育次長・山下准史さん(60)が語り掛けます。
【山下准史さん】
「『また来週ね』って子どもを帰していったんですよ、でも帰ってこなかった子がいる」
27年前のことを鮮明に覚えています。
それでも震災を語ることができなかった過去があります。
山下さんは、東灘区にある自宅で被災しました。
地震の後、すぐ近くにある実家までの光景は変わり果てていました。
【山下准史さん】
「電信柱がすべて道路側に倒れてきていたので、上を超えたり下をくぐったりして実家のほうへ向かった感じですね。実際たどり着くと2階が1階を押しつぶしている状態でしたから、もうその時点で泣き叫んでいる状態になってたと思います」
1階で寝ていた両親は、潰れた家の下敷きになっていました。
母親の芙美子さんは自力で脱出しましたが、父親の金宏さんは、がれきの下で亡くなりました。
60歳でした。
【山下准史さん】
「(2人は)家が倒壊した後で、一言二言会話したようですけどね、父が「自分はもうだめだ」みたいなことを言ったように、母はその時にも言ってましたけど。そういう最後の会話もあるので、つらかったんだろうと思いますけどね」
震災後、体調を崩した芙美子さんも5カ月後に亡くなりました。
【山下准史さん】
「割としょっちゅう2人で近所の市場にも買い物に行ってましたし、のちに近所でも『仲がいい夫婦や』と評判だったと聞きましたんで、ある意味そうありたいなと思うような夫婦だったんだと思います」
相次いで家族を失うなかで、教師として震災と向き合わなければなりませんでした。
【山下准史さん】
「とにかく喪失感ばっかりだったんですよ。しばらくは子供たちに自分の体験を話し始めると普通でいられなかったです。涙が出てくるし嗚咽が始まって、冷静に話ができる状態ではなくなるので。話すとそういうことになってしまうのできちんと(震災を)取り上げたくなかったのかな、今にして思えば」
■喪失感のなかイランに…芽生えた変化
震災から4年が過ぎた時、山下さんはつらい記憶から逃げるように神戸を離れ、イランの日本人学校に赴任します。
地震が多いイランの子どもたちと関わるなかで、防災教育の重要性に改めて気付きました。
そして念願だった子どもを授かりました。
【山下准史さん】
「子どもを授かることができて、失うことが中心だった人生が得ることが中心の人生になったというところがあって、本当にいろんなことを得ること中心の思いに切り替わったんで」
3年間の任期を終え、神戸に帰ってきた山下さん。
■父親と同じ60歳に…教師への最後の言葉
【山下准史さん】
「私は当日ここで叫んでました。埋まってる、なんとかしてほしいと。神戸で6000人が亡くなって、その何倍もの人がきっと悲しんだんですよ」
子どもたちに遺族として、教師として、伝え続けてきました。
今は教壇を離れ、教育委員会の一員として働いています。
ずっと教育に携わる仕事を続け、この日、父・金宏さんと同じ60歳になりました、ことしで定年を迎えます。
【山下准史さん】
「自分はまだまだ若い気でいるので、こんな年で亡くなったんかって。(仕事を)最後までやり切ったことについては、褒めてくれるんちゃうかなと思います、っていうか褒めて欲しいですね」
時が過ぎ、新人教師の多くが震災後に生まれた世代になっていました。
山下さんが“現役の職員”として震災を伝えるのは、これが最後になります。
どうしても忘れて欲しくないことがあります。
【山下准史さん】
「この写真は東遊園地にある慰霊と復興のモニュメントです。この中には震災直接亡くなった方、あるいは関連死の方の名前が貼ってあるんです。ここには私の両親の名前、銘板が貼ってあるんです。そして、当時私が勤めていた御影北小学校の4人の子供の銘板も貼ってあるんですよ」
「伝えたいのは、二度と二度と、先生方の大切なかわいい子供の名前を、こんなところに貼ったらあかんのです、先生方の大切な家族もです。防災教育したからって命が全部救えることはないと思います。でもね、でも、頑張って救いたいですよ。私はもうすでに子供たちの前で授業することはできません、でも先生方はこれから先まだ長く、神戸の子供たちを育てていけます。これからの神戸の子供たちを育てるのは先生方です、どうぞよろしくお願いします」
■5時46分の祈り あの日失った家族・生徒に…
ことしも1月17日がやってきました。
大切な人の名前が入った銘板の前に向かいます。
【山下准史さん】
「ここって遺族にとっては泣いていい場所。毎年ここで手をあわせると涙が出てきたんですけど、ことしは気持ち的には穏やかな気持ちで来ました。けど、よくも悪くもあの震災があっての27年ですのでね。おかげさまで充実してましたよっていうことは、2人には伝えられると思っています」
あの日の記憶と共に生きていきます。
(2022年1月17日放送)