多くの命を奪った東日本大震災。
その教訓を伝えようと、全国の子どもたちに向けて語り部の活動を続ける男性がいます。
家族を失い、阪神淡路大震災の復興のシンボルとなった”ひまわり”に支えられ生きてきた10年間。
子どもたちに伝える、命のメッセージです。
■災害派遣から戻ると…“失ってしまった家族” 眠れぬ日も
陸上自衛官の佐々木清和さんは、今も月に数回、家族と暮らした場所を訪れます。
【佐々木清和さん(54)】
「ここは家族5人で生活していた場所なので、大切な場所のひとつ。ただ周りが、かなり変わっちゃったんで」
「ここに家があって、向かいに家があって。そういうのは、ここに来ると思い出す」
街の復興計画で、人が住めないエリアに指定されたため、ここに戻ることは出来ません。
―2011年3月11日 東日本大震災―
佐々木さんが暮らしていた宮城県名取市・閖上(ゆりあげ)地区は、高さ8m近い津波に襲われ、753人が犠牲になりました。
佐々木さんはすぐに災害派遣され、自宅近くで任務にあたっていましたが、家族とは連絡が取れないままでした。
10日後、遺体安置所で娘の和海(当時14歳)さんと、妻・りつ子さん(当時42歳)と対面しました。
一緒に暮らしていた義理の両親も亡くなりました。
【佐々木清和さん(2015年)】
「買い物行ったりして、中学校のジャージ着ていたり、うちの子どもも髪の毛長かったので、そういう人をみると、なんでいないのかなって思う部分はあります」
携帯電話の壁紙を、知らない間に娘の和海さんが変えていたことがありました。
和海さんが書き込んだのは…「お~い、元気かぁ?」
【佐々木清和さん(2015年)】
「今だと“ありがとう”だよね」
酒の力を借りないと、眠れない日々が続いていました。
■「家族の代わりみたいな…」 神戸から譲り受けた“ひまわり”を育て続ける
佐々木さんの重く沈んだ心を照らしたのは、ひまわりでした。
1995年、阪神・淡路大震災で犠牲になった、加藤はるかさん(当時11歳)の自宅跡地から芽を出したひまわり。
「はるかのひまわり」と名付けられたその種は、震災の記憶を語り継ぎ、復興への希望をつなぐシンボルとして全国各地に広がっていきました。
佐々木さんも種を譲り受け、自宅があった場所で育てました。
【佐々木清和さん】
「いれば世話ができた、家族の代わりみたいな形ですね。草取りしたり、水やったり。成長してくれれば嬉しい」
転勤で、宮城県を離れても、ベランダで育て続けました。
今は、閖上から車で20分ほど離れた、自衛隊の官舎に住んでいます。
半年後には、定年退職を迎えます。
今後、どこに住むのかは、まだ決めていません。
【佐々木清和さん】
「震災直後はたぶん、仕事をすることであえて家族のことは考えない。どこか逃げてたと思う。でも今は毎日声もかけますし、後ろ向きってことはない。ただ3月がくるとちょっと寂しい」
今年の夏も、ひまわりを咲かせる予定です。
【佐々木清和さん】
「私がひまわりに対して一番感じるのは、真夏に太陽に向かう力強さかなと思っています。ひまわりを見るたびに私も頑張らないといけないなという思いにさせてくれる花かな」
■「2人が生きた証をこれからも残す」 亡き娘と同世代に伝える“命の意味”
―大阪・寝屋川市 去年11月―
【佐々木清和さん】
「津波にのまれたときに、娘が着ていた中学校のジャージです。上はほとんど傷んでません。下はちょっと穴があいています。たぶん瓦礫があたったのかなと思っています」
佐々木さんは今、語り部として全国の小中学校で講演をしています。
和海さんの姿を重ねてしまい、震災後は、同世代の子どもを見ることさえできない時期もありました。
語りかけるのは「命の意味」。
逃げずに自分の経験を伝えることを決めました。
【佐々木清和さん】
「震災のとき、両手で抱えきれないほどの荷物を持たされた私が、震災後に出会った人が少しずつ、私が持っている荷物を持ってくれたおかげで今、荷物は野球のボールくらいになったのかな、そんな気がしています」
「津波にのまれたら、大好きな家族と会うことができなくなってしまう。自分のため家族のために安全な場所に逃げてください。今できること、勉強すること、体を鍛えること、心に栄養を与えること、できることをしっかりやって、一度きりの人生、思いっきり自分の生き方で生きてほしい。皆さん一人一人が皆さんの家族友人にとって、かけがえのない存在です」
生徒たちが、お礼の気持ちを込めて歌ったのは「いのちの歌(竹内まりや)」。
震災のあと、佐々木さんが大切にしてきた曲です。
♪いつかは誰でも この星にさよならを する時がくるけれど
命は継がれてゆく
生まれてきたこと 育ててもらえたこと
出会ったこと 笑ったこと そのすべてにありがとう
この命に ありがとう
(いのちの歌/竹内まりや)
【中学3年生】
「(佐々木さんが)歌詞が自分にあてはまっていると言ってて、改めて聞いてたら・・・佐々木さんがこんな思いで暮らしてたんやろなっていうのがわかって・・・。改めて家族の大切さがわかって、一日一日を大切に過ごしていこうと思いました」
学校では、この日のために生徒たちが育てた「はるかのひまわり」が、季節外れの花を咲かせていました。
―2021年3月11日午後2時46分―
「黙とう」
閖上では毎年、メッセージを書いた風船を飛ばします。
佐々木さんは、2人に宛てて、こう書きました。
りつ子、和海へ。
2人が生きた証をこれからも残す。
そして、命の意味を伝え続ける。
今年は閖上にひまわりを咲かせるよ
(カンテレ「報道ランナー」3/11放送)