照屋盛喜さん(87)。
毎年この日に行くところがあります。
『京橋駅空襲慰霊祭』
あの日に思いを寄せていました。
【照屋盛喜さん(87)】
「あつかったですよ、あの日も。『平和で自由で日本をええ国にしました。安心して眠ってください」と報告に来た」
【記者リポート】
「75年前のきょう、終戦前日に大阪は最後の空襲を受けました。」
「大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)」への攻撃は、周辺の街を巻き込み、すぐ近くの国鉄京橋駅にも流れ弾の1トン爆弾が落ちました。
照屋さん(87)は学徒動員として京橋駅近くにあった船舶の部品工場で働いていました。
当時12歳でした。
ーーQ:ここで見た?
【照屋さん】
「真正面に京橋駅が見えて、ものすごい煙が空に上がっていた。京橋の駅がなくなってしもたと。戦争は考えられないことが平気で起こる」
爆弾は高架を突き破って片町線のプラットホームを直撃。
犠牲者は身元が分かるだけで約200人、実際は600人近くに及ぶと言われています。
ホームの下には遺体が積み重なり、照屋さんはひたすら遺体を空き地に並べる作業を手伝いました。
【当時14歳の女性が描いた空襲直後の京橋】
【照屋さん】
「手だけとか足だけとか人間のパーツをすぐ素手で触れた。遺体とか血とか油は全く嫌悪感がなかった」
ーーQ:どうして?
【照屋さん】
「頭の中が空白。真っ白けに。気持ち悪いより、ずるずるになるので手で持っても頭が滑って困ったのを覚えています」
ーーQ:(京橋駅の周辺で)数百人の方が亡くなっているのを知っていましたか?
【20代女性】
「知らないです。過去の方、大変な思いをして食べるものとか困って生活していたと思うと胸が痛む。」
【30代男性】
「ほとんど知らない。(慰霊碑の)千羽鶴などの飾りつけはみたけど。内容などは全然。また見て、頭下げておきます」
【照屋盛喜さん(87)】
「戦争がやっぱり残っていますね。欠片もないように見えるけど、知っているものがみたら見えるんですね、戦争の跡が」
なぜ戦争を忘れてはいけないのでしょうか。
【照屋さん】
「子どもの時にお父さんいなくなったらどうします。そういうことを考えると戦争は何があってもあかんな。75年が戦争なしで来られたのはどれぐらい日本人は幸せなのか」
ーーQ:楽しいと思う瞬間は?
【妻・美江さん(85)】
「あれがね、ピンクが私。この子が第一番のひ孫。」
【照屋盛喜さん(87)】
「ひ孫の話をしている時はケンカしないんですよ」
戦争を経験したからこそ、いまの幸せを感じられる。
終戦から「75年」。
戦争を体験した人の高齢化が進み、慰霊祭では来年以降の運営について、ことし初めて話し合いをすることにしています。
ーーQ:(戦争を)知らない世代に伝えられていなくて伝えたいことは?
【照屋さん】
「人間として生きるために平和がどれぐらい幸せなのか。平和を維持して欲しい」
ーーQ:維持が求められる?
【照屋さん】
「そうですね」
あの頃を知る世代と、知らない世代。
悲惨な経験をしていない私たちが戦争とどう向き合うかが問われています。