滋賀県に住む山本栄策さん。
99歳の今でも、戦争の記憶を残し続けています。
【山本栄策さん(99)】
「ああ、これね、重機関銃。これはよう当たった」
1944年、大学生だった山本さんは学徒動員で陸軍に入隊。
異国の地で、死と隣合わせの日々を過ごしました。
山本さんが送られたのは、日本から4000キロ以上離れたビルマ、現在のミャンマーでした。
日本軍は、連合国が中国へ軍事物資を送っていた輸送路を遮断するためビルマを占領しましたが、山本さんが出征した1944年には敗色が濃くなっていました。
山本さんが所属する部隊は、物資の輸送路確保を狙う中国軍と対峙するため、中国との国境付近へ移動。野営中に敵の戦闘機に攻撃されたのが、山本さんにとって初めての戦闘でした。
【山本栄策さん(99)】
「砲弾の破片が頭に食い込んでいる人がいましてね。その人が、山本、ワシを殺せって言ってるわけですわ」
「本当に死んでる人もあるし、苦しみで叫んでいる人もあるし、そこら血だるまですわ。これが地獄やな。生き地獄やなと初めて思いましたね」
初めての戦闘は、戦争が生き地獄だと知った瞬間でした。
ほどなくして、20人ほどの部隊で中国軍との戦闘にあたりましたが、生き残ったのは、山本さんただ1人。
それでも、戦闘の日々が終わることはありませんでした。
【山本栄策さん(99)】
「たこつぼ(地中に隠れる穴)を掘るわけですね。たこつぼの掘り方の足らん人は、敵の戦車が10トンくらいの戦車があるわけです。踏み殺される瞬間の声っていうのは、なんとも言えないですね。断末魔いいますか、声ですな。その声が耳に残ってますわ。まだね」
山本さんは、終戦の3日前に敵の戦闘機に足を撃たれ、運ばれた病院で終戦を迎えました。
敗戦に驚きはありませんでした。
【山本栄策さん(99)】
「撃たれても傷しても治してもらう医療品はないし、第一食べるもんさえ補給してくれない。弾も補給がないもんですから、撃つなって命令が。敵が目の前に来たら狙撃せえって。これは戦争にならんやないかということをはじめから思てましたな」
ビルマでは、18万人を超える日本兵が死亡。
飢えや病によるものも、多くありました。
山本さんは、地元の小学生などに戦争体験を語り継ぐ活動をしてきましたが、新型コロナウイルスの影響で、今後いつ開催されるかは分かりません。
そんな中、山本さんは地元の平和資料館を訪れました。
取材班が山本さんを紹介。
ヒアリングが行われることになったのです。
【滋賀県平和祈念館・日高昭子さん】
「お父さんと一緒にいた同じ部隊の人はどうなったんでしょうね」
【山本栄策さん(99)】
「大隊本部行って、他の人はどやって聞かれたんですけど、私は断崖から落ちて私一人で徘徊しとったから、他の人の行動が分からんわけですわ。私に聞くよりも、みな帰ってへんのかどうか聞きたかったんです。そしたら、みな帰ってないということを聞いて、本当に…そのときに泣きましたわ。声上げてね」
語り続ける人がいる一方で、それが難しくなっている現状もあります。
花道柳太郎さん(95)。
95歳になったいま、耳がほとんど聞こえなくなっています。
1945年。終戦間近というその時に、花道さんは、突然、特攻隊員になることを余儀なくされました。
――Q:どうして特攻隊に入った?
【花道柳太郎さん(95)】
「命令よ。命令よ。自分で行ってない」
貧しい家庭に育った花道さんは、「働きながら勉強ができる場所」を求め、陸軍航空部隊の専門学校へ入学。配属された部隊が「特攻部隊」に指定されてしまったのです。
太平洋戦争末期、戦況が苦しくなった日本軍が行った作戦、「特攻」。
爆弾を積んだ飛行機などでアメリカの軍艦に突っ込むこの作戦で、約6400人が犠牲になったとされ、そのほとんどが10代から20代の若者でした。
花道さんの手元に今も残る当時の特攻隊員の教本にはこう書かれています。
「『必ず沈める』信念を絶対に動かさず。必殺の喚声を上げて殴り込め」
「人生25年、最後の力だ。神力を出せ。」
死ぬことが栄誉とされるなか、出撃命令を受けた花道さんは、当時のことを手記に残しています。
(花道さんの手記より)
「出撃の前の晩、一緒に搭乗する機関士が、『実はわし、好きな子ができて、本当は死にとうないんや』っていうた。それで、わしも『実はわしも死にたくない』って言うた」
「その朝早く起こされ、食堂になっていた教室に行くと、戦争中とは思えない立派なごちそうが並んでいたんでびっくりした。けど、胸が一杯でほとんど食べられなかった」
花道さんを乗せた特攻機は、1.6トンもある爆弾を、小さな機体にのせ沖縄へ向けて出発。
しかし、天候が悪く、敵の軍艦を見つけられないまま、花道さんの部隊は生きて帰ってくることになりました。
(花道さんの手記より)
「先輩や戦友に暖かく迎えられ、生きて帰ったのがよかったのか、いけなかったのか迷った。だが、つくづく生きていてよかったと思った」
しかし、花道さんは、終戦後30年間も、両親や妻にも、自らが「特攻隊員」であったことを隠して過ごしていました。
その理由を聞くと、一言だけ答えてくれました。
【花道柳太郎さん(95)】
「恥ずかしかった」
その後、周囲に説得され手記を出版。
それをきっかけに「若い世代に語らなければ戦争の歴史は消えてしまう」と、語り始めた花道さんは、80代半ばまで自らの経験を伝えてきました。
しかし、音が聞こえなくなるにつれて、語ることができなくなってきました。
その思いは、たしかに次の世代に繋がれています。
【花道さんの孫】
「おじいちゃんが生きて帰ってこなんだら結婚もしてないし母親も生まれていないし、ここが全部生まれてないと思ったらものすごい奇跡的なことやし、やっぱりすごいことやし」
【花道さんの孫】
「おじいちゃん命大事にしてって言ってたな。昔講演会で「命大事にせなあかん。死んだらあかんよ」っていうのを言うてきたし。この子らにも自分を大事にしていってほしいなって」
――Q:生きて帰ってきてよかったですか?
【花道柳太郎さん(95)】
「これはええよ。なかなか生きて帰れんもん。これはよかったよ」
――Q:もう戦争は起きて欲しくないと思いますか。
「戦争はあかん」
忘れることのない記憶。
語ることができる人は、今、少なくなっています。