大阪府八尾市・大正地区にある八尾空港。
小型機やヘリなどが発着する小さな空港で、周囲は閑静な住宅街が広がります。
【河内の戦争遺跡を語る会 大西進さん(79)】
「この建物見てください。あちこちに穴があったり、木で埋めていたり、そのままだったり」
八尾空港の一角に残る、古い灰色の建物。
厚さ約1mのコンクリートで覆われています。
ここは旧日本軍の「戦闘指揮所」です。
かつてこの地域は「陸軍大正飛行場」と呼ばれた巨大な軍の施設でした。
開戦直前、大正飛行場には陸軍の航空隊を指揮する司令部と、その実動部隊「飛行第246戦隊」が置かれました。
【大西進さん】
「滑走路をみて一番近い建物があれば、一番重要だと空襲の対象になるので」
「戦闘指揮所」は、基地内の最も危険な場所に設置されていて、分厚いコンクリートには攻撃によって空いた穴や傷が残されています。
【大西進さん】
「終戦間近の頃、コンクリートが極めて少なくて砂利ばっかり。そのために砂利がいっぱい落ちてきたりしている」
八尾市に住み、大正飛行場について調査を続ける79歳の大西進さん。
父親を戦争で亡くしたことから、地元の戦争の歴史を知りたいと、当事者の聞き取りや記録から調べるようになりました。
【大西さん】
「私の父は戦死している。戦死したときの事情もわからない、戦死した時の事情も分からないような戦争に巻き込まれないように。戦争のない平和な国になってほしい」
大正飛行場は近畿を含む本土の3分の1の防空を担う、中心的な役割の飛行場でした。
周辺には飛行機の修理などをする航空廠や軍需工場がつくられ、地元住民や学徒動員なども働く広大な「軍都」として発展していきました。
昭和20年、各地が空襲を受けるなか、大正飛行場も攻撃対象となり、八尾市でも被害を受けました。
【大西さん】
「掩体壕。飛行場から4.5キロ離れたところに、山の中という感じで飛行機を隠していた。そのための入れ物」
住宅の合間に残る「掩体壕(えんたいごう)」。
飛行機を空襲から守るための施設で、日本軍は戦況が厳しくなると急ピッチで作り進めていき、大正飛行場でも内外に40基ほど建設されました。
しかし、大西さんは歴史を調べる中で意外な事実を知ります。
ーーQ:掩体壕に飛行機は入っていた?
【大西さん】
「入ってなかったのがどうも真実。本土上陸が予想された頃には飛行機の消耗が早すぎて生産が追い付かない状況が起きていた。それが日本の戦争なんですけど、事実なんですけど」
大正飛行場では本土決戦に備え、航空戦力の中枢としての準備が進められましたが、終戦とともに八尾は軍都としての役目を終え、施設は次々になくなっていきました。