今年の8月15日で、終戦から74年。
長い年月が過ぎ、当時の子供たちが戦争経験者の中心になってきています。
神戸の戦火を逃げまどったあの日の子供たちが深く刻まれた記憶を語ってくれました。
死者 8000人 神戸大空襲
戦前に撮影された神戸の風景です。
祭りや、家族の笑顔。
当たり前にあった光景は、戦争で一変しました。
太平洋戦争末期の1945年、神戸は大規模な空襲に見舞われました。
焼夷弾による無差別な爆撃。
死者は8000人ともいわれています。
多くの子どもたちが、焼き尽くされる、ふるさとの中を逃げまどいました。
子供たちが見た、「戦争の記憶」です。
当時13歳、姉の遺体を父と運んだ
西阪順三さん(87)は空襲の日、母親と二人の姉と一緒に三ノ宮駅の近くの自宅にいました。
【西阪順三さん】
「朝の8時過ぎなのに真っ暗ですわ。煙で。焼夷弾が5mおきくらいに突き刺さっている、火を噴いて」
当時13歳だった西坂さん。
母と二人の姉を見失い、火の海の中を一人で必死に逃げました。
今は繁華街となった東門街。
ここで逃げ場を失い諦めかけた時、消防団の男性に声をかけられました。
【西阪さん】
「消防団のおじさんが『こっち行ったらあかん』いうて『一緒に逃げよう』といって手をつないでくれた。焼夷弾がざぁ~っと夕立の音に似たような音でね、落ちてきたんですよ。その時に手をつないでいる隣のおじさんに焼夷弾が当たって、私は、血だらけ。おじさんを引きづって行こうとするけど、子供の力では大人は引きずられへん」
1か月後、西阪さんは再びこの場所に戻ってくることになります。
空襲で命を落とした母と二人の姉。
当時14歳だった姉の遺体が、見つかったのです。
父と一緒に向かったのは、東門街のすぐ近くにある防空壕でした。
【西阪さん】
「ここは防火用の池があったところで、角に防空壕があって、下の姉の遺体が見つかったところ。親父は『姉ちゃんや』いうてね。僕は怖くてね。足は白骨になっているのを中学1年の時に『持て』言われた時は、ホンマに困った。親父にどつかれて『それぐらい持て』と言われ…家の焼け跡まで運んだ」
当時16歳、切り落とされそうになった腕
時が経ち、街並みが変わっても、消えない記憶があります。
【杉田典子さん】
「たくさんありますのよ、アルバムが。これが小学校1年生の時、かわいいでしょう」
杉田典子さん(90)
神戸大空襲の時は、女学校の3年生。
16歳でした。
【杉田さん】
「ここからしゅっと(焼夷弾の破片が)抜けた。医者から『もう5ミリ深かったら、即死していた』といわれた」
母と姉の三人で逃げる途中、爆風で吹き飛ばされて折れた左腕は今も伸ばすことができません。
【杉田さん】
「この手は放っておいたら命にかかわるとこのせいで命が危ないかもしれないからすぐ切りましょうって、軍刀でスパッと切るのよ。だから、その辺に手やら足やらが切られたのが、ば~んと置いてるのよ。姉が『頼むから切らんといてくれ。この子まだ16歳やから、これから大人になっていくのに手が片っぽなかったら困るから切らんといてほしい』と泣くように頼んだ」
最愛の母、末子さんは空襲で命を落としました。
夏には家族連れでにぎわう須磨の海。
杉田さんの自慢だった海の光景も変わり果ててしまいました。
【杉田さん】
「亡くなった人は亡くなった人で積まれて、浜の端っこの方にどんどん積み上げるの死んだ人は。そして積み上げたところに火をつけてね、すぐに焼いてしまう。誰の骨かわからない。だけど、焼いた骨の灰をそれぞれが弁当箱や器を持って行って灰を貰って自分の家族やと思って家に置いていた」
「これからの時代の人は平和といっても、平和がどういうことなのかもわからないかもしれない」
当時5歳、生田川に遺体が並ぶ記憶
【古川輝男さん】
「この道だったと思うんですよね」
当時5歳だった古川輝男さん(79)。
春日野道で家族と暮らしていました。
かつての自宅があった場所を訪れたのは、74年ぶりです。
【古川さん】「多分このあたりですわ」
――Q:ここに防空壕があった?
【古川さん】
「ここからあの先までざーっと掘ってるんですわ。出入り口がここに小さいのがあって向こうにもにあって、中にみんなを押し込んだんですわ」
――Q:何人ぐらいいた?
【古川さん】
「それはすごい人でした。私たちは入れなかったから」
自宅の近くにあった防空壕に落ちてきた無数の焼夷弾。
一瞬で、中にいた人は炎にまかれました。
古川さんの二人の兄もこの場所で命を落としました。
【古川さん】
「ほとんどがここで亡くなりました。親父がここで拾いにきたってなんぼ掘り返してみても、なんの遺品もないです」
家も、家族の写真も、すべて焼き尽くされました。
近くを流れる生田川が見たいと歩き出した古川さん。
記憶が溢れ出てきます。
【古川さん】
「ちょうどああいう草が生えたあんな感じ。川幅が狭くて深かったですね。みんなここでうつ伏せになって顔だけ突っ込んでずらっと亡くなっていましたわ。ずらっとあの道から上のほうまで、みんな並んだままで。それはすさまじい光景ですよ…私の記憶はそこまでやね」
――Q:これまで戦争の体験は語ってなかったんですよね?
【古川さん】
「話をすればいい思い出一つもでてこないもんね、怖い思いでしか出てこないです。あとは寂しさが残るだけでしょ?そんな話誰も聞かないですよ」
空襲で亡くなった兄や母の顔は思い出せなくなってきました。
【古川さん】
「名前3人載ってまっしゃろ。この3人が空襲で亡くなった」
神戸大空襲の悲劇を語り継ぐという願いが込められた慰霊碑。
古川さんの家族の名前も、5年前に刻まれました。
【古川さん】
「ここに名前を刻んでもらって初めて、あの日までは元気にみんな生きてたんだってことが確認できるんですよね。ふるさとに帰る、実家がある帰る家があるってことは、本当に幸せですわ。つくづく思った。この70何年間、ああいう戦争がなかったことは、本当に幸せですよ」
子供のころに見た、あの戦争の記憶が、平和の意味を教えてくれます。