【陸上自衛隊員・佐々木清和さん(52)】
「皆さんにとって幸せって何ですか、ちょっと考えてください。私にとっての幸せは、平凡な毎日の生活だと、いまつくづく感じています」
大阪の中学校で、子どもたちに語りかける、陸上自衛隊員の佐々木清和さん(52)。8年前の東日本大震災で、家族4人全員を亡くしました。この春、佐々木さんの経験が中学校の道徳の教科書になりました。
<光村図書「中学道徳1」より>
『陸上自衛官の佐々木清和さんは、宮城県名取市閖上で、妻のりつ子さん、娘で中学二年生の和海さん、妻の両親の5人で暮らしていた。
朝、清和さんは、りつ子さんと夫婦げんかをしたまま出勤した。
昼休みに、りつ子さんから電話がかかってきた。
「まだ怒っている?」「もう怒ってないよ」
この電話が、りつ子さんとの最後の会話だった』
佐々木さんが暮らしていた宮城県名取市閖上地区は、2011年3月11日、高さ8m近い津波に襲われ、710人が犠牲になりました。佐々木さんは、すぐに災害派遣され任務にあたりました。
家に戻れず、家族とも連絡が取れないなか、佐々木さんの元に届いたのは、悲しい知らせでした。
<光村図書「中学道徳1」より>
『遺体安置所で和海さんと対面したのは、震災から10日後だった。 「なぜ逃げなかったの…?」それが最初にかけた娘への言葉だった。 翌日、りつ子さんが同じ遺体安置所で見つかった。清和さんの折れそうな心の唯一の支えは、災害派遣活動への使命感と責任感だった。
62キロあった体重はいつのまにか50キロを切っていた。お酒に頼る日々が続いた』
そんな佐々木さんの心の支えとなったのが、神戸から広がったひまわりの花です。
【2014年・加藤いつかさん(旧姓)】
「これは、阪神淡路大震災で私の妹が亡くなったところに咲いたひまわりから採った種です。今日は皆さんの手で苗を植えてもらって、大きな花を咲かせてもらって、来年に語り継いでもらえたらなと」
1995年の阪神・淡路大震災。神戸市に住んでいた、いつかさんの妹・はるかさん(当時11歳)が自宅の下敷きになり命を奪われました。
その年の夏、自宅の跡地に、はるかさんの持っていたひまわりの種が芽を出し、花を咲かせたのです。
ひまわりの種は、「はるかのひまわり」と呼ばれ、震災の記憶を語り継ぎ、復興への希望をつなぐシンボルとなって、全国各地に広がっていきました。
当時、被災地を何度も訪ねられた天皇陛下は、皇居でこのひまわりを育てられています。ことし1月の「歌会始の儀」では、ひまわりの歌を詠まれました。
<光村図書「中学道徳1」より>
『清和さんは、この種を譲り受け、津波で流された自宅跡に植えた。欠かさず水をやり、草をむしり、肥料をやり、五十本の花が咲いた』
【2014年・佐々木さん】
「ここで生活してたよ、家族5人で。証というか、いたよという記憶を残したい。いれば世話できた家族の代わりみたいな形ですね。草取りしたり、水やったり。成長してくれればうれしいし、花咲いて」
<光村図書「中学道徳1」より>
『四年目には転勤で閖上を離れたが、転居先のベランダで育て続け、22本のひまわりが咲いた。「22」は、清和さんにとってうれしい数字だった。りつ子さんは6月22日、和海さんは7月22日生まれなのだ』
【2016年・佐々木さん】
「今まで気づかなかったんですけど、何気なくそこに寝転んでたら、太陽に向かって伸びてるから、上から見えるんじゃないかな。彼女たちが見てくれてるんじゃないかなて少し思う」
【2019年3月・佐々木さん】
「(仏壇に向かって)帰りました~帰ったよ」
ひまわりの世話をするようになって、佐々木さんの生活は落ち着きを取り戻していきました。これまでは妻が作ってくれていた食事も、自分で準備しています。3年前、和海さんが成人になるはずだった年には、スーツを買ってあげました。
【佐々木さん】
「節目というのは年月じゃない。その人にとって、何かが大きくかわる瞬間が、私は節目だと思っている。震災後に自分が変わったなと思うのは、寝屋川市(大阪)の中学校で話をするための原稿を書いていたときに。その時に自分が一番大きく変わったのかな。それが一番大きな節目かな」
震災から5年後、佐々木さんは、初めて、中学生に経験を語りました。それまでは、娘の姿を重ねてしまい、同年代の子どもを見ることさえも出来ませんでした。
【2016年・佐々木さん】
「私が最近思っているのは日々の生活がいかに幸せか、ということです。ケンカしても『行ってくるよ』『今帰ったよ』と言えること、家族と食事ができることが一番幸せなことではないでしょうか。当たり前は永遠ではありません。だから毎日を大切にしてください」
【講演を聞いた中学生】
「日常を全部ちゃんと特別に思って生きていきたいなと思いました」
「一日一日大切に生きてほしいという言葉が、印象に残りました」
「はるかのひまわり」を伝えてきた加藤いつかさん。この日、佐々木さんと初めて出会いました。
【加藤いつかさん(旧姓)】
「色んな人の手を借りて広がっていくというのは、とてもやっぱり残したものは大きかったのかなと」
【佐々木さん】
「私もひまわりですごく元気を頂きまして。ありがとうございます」
【2019年3月・佐々木さん】
「中学生から『お前何やってんだよと、前に歩き出せ』と言われた気がしたから。中学生の姿をみて、目を背けるんじゃなくて、はっきりみろと。はっきりみないと言っていることも相手に伝わらない。逃げていたら」
今も月に2回は、片道1時間半かけて閖上を訪れます。土地のかさ上げ工事が進み、景色は変わりましたが、自宅があった場所は大切に残していくつもりです。
そして、一人でも多くの人に、震災のことを語り継いでいきたいと思っています。
<光村図書「中学道徳1」より>
『人前で話すのは決して得意ではない。今でもテレビで津波の映像が流れると消してしまう。いつも決まって、この問いかけから語りは始まる』
【佐々木さん】
「皆さんにとって幸せって何ですか?」