ことし1月15日、大阪地裁・山田裕文裁判長が言い渡した強制性交等事件の無罪判決。
司法記者の私は、判決文の最後にあった「総括」という珍しい小見出しと、そこに記された一文に意表を突かれた。
「犯罪に当たる行為はなかったにもかかわらず、誤って認定し、刑事処罰を科すのはさらに大きな不正義といわなければならない」
無罪判決自体、多いものではないが、こんなことが書かれた無罪判決文はこれまで見たことがない。確かに刑事裁判には「疑わしきは被告人の利益に」の原則があるのだから、当たり前のことだ。なのに、なぜその“当たり前”のことを切々と書いているのだろう。
■被害者の供述の“信用性”が争点に
事件はマッチングアプリを通じて知り合った20代の男女の間で起きた。
被告人である外国籍で日本在住の男性と、被害者の女性は、半年以上にわたりオンラインで 「飲みに行こう」などとメッセージのやり取りをしていた。
女性には他に交際相手がいて、被告人とは男女関係を意識したやり取りをしていたわけではなかったという。
事件のあった2023年3月、二人は初めて“オンライン”上ではなく、“リアル”で対面した。
女性から自分の住んでいるシェアハウスに来ないかと誘われた被告人は、シェアハウスを訪れ、共有スペースで一緒に飲んだ後、そのまま寝てしまう。
しかし、過去に共有スペースで寝て管理人に咎められたことのあった女性は、被告人を自分の部屋に連れて行き、寝かせたという。ここまでの過程について、双方の言い分は一致している。
食い違いが生じるのは、女性の部屋で行われた約30分間の性交について。
「同意があったのか、なかったのか」
「暴行などがあったのか、なかったのか」
検察は「被告人は被害者の顔に枕のようなものを押しつけて、ズボンを手で下げるなどの暴行を加え、反抗を困難にして性交した」と指摘し、“同意のない性交”だったとして、強制性交等罪で懲役6年を求刑した。
一方、被告人の主張は「女性の反応を見て、性的関係を拒む意向であれば行動に出られるだけの間合いを十分に取りつつ、徐々に性的意味合いの強い行為に移行し、慎重に(反応を)確認しながら性的関係を進めた」。つまり、“同意のあった性交”。
女性は事件後、警察に促され病院を受診しているが、体に傷は認められなかった。唯一の証拠は女性の供述で、裁判ではその「信用性」が争点となった。
検察は被害者の供述の信用性について、「内容が一貫している」「被害申告自体に心理的抵抗 を伴う性犯罪被害を訴える被害者供述は“通常”信用できる」と主張した。
■客観的な証拠なし…裁判所の判断は
性犯罪によって被害者が受ける傷は心身共に大きく、何年もトラウマとなって被害者を苦しめる。声を上げられず、1人で苦しんでいる人も少なくないだろう。
私も実際に取材を通して被害の深刻さを目の当たりにしてきたし、同じ女性としても性犯罪事件には心を痛めることが多い。もし事件であるならば、犯人には反省して罪を償ってほしい。
しかし客観的証拠がない中、“供述の信用性”を裁判所はどう判断するのだろう…。
裁判所は、被害者の供述に以下の不自然な点を指摘した。
①「同一困難と思われる犯行内容」
供述では、ズボンを脱がせるなど被告人のさまざまな行動が表現されている一方、被害の最初の段階から最後まで、顔には毛布ないし枕が当てられていたとし、両立が困難と思われる内容が含まれている。
➁「アラームが鳴り続ける中での犯行」
性交の途中で鳴ったアラームについて女性は行為の間、「鳴り続けていた」と供述している。しかし、女性が住んでいるのは大声での話し声が隣の部屋にも聞こえるシェアハウスであり、もしアラームが鳴り続けていたのなら、隣人が部屋に乗り込んでくる可能性もある。犯人の立場に立つと、アラームを放置したまま犯行に及ぶのは心理的抵抗があると思われ、 不自然さが拭えない。
加えて、被害者が抵抗したことに関する供述には「『やめて』と言った気がするが、具体的 にどう伝わったのか分からない」など、曖昧な部分も見られた。
大阪地裁は、被告人の性交後の態度や、避妊の配慮を欠いたことなどが被害者の心証を損ねた可能性があり、事実と異なる被害申告につながる可能性も皆無とはいえないと結論づけた。そして「被害者の供述の信用性が肯定できると判断するには、積極的根拠が不十分」として、無罪を言い渡したのだった。
判決文からは、慎重に慎重を重ねて判断した裁判官の苦悩も伺えた。
「性犯罪の被害深刻の事実をことさらに重視し、他に有力な証拠もないのに被害者供述の 信用性を肯定することは、わずかではあっても、虚偽の被害申告等を見落とす危険を伴うも のであり、被害者供述を信用して、被告人の弁解を虚偽として排斥することは躊躇される」
■「当たり前のことをする勇気を感じる判決」
これまで数多くの刑事弁護を担当してきた主任弁護人の水谷恭史弁護士も、判決文「総括」の珍しい言及には驚いたようだった。
【水谷恭史弁護士】「『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の原則を真摯に受け止めると、こういう判決になる。これだけ迷い、悩み、それを正直に吐露した判決は珍しい。そこまで逡巡したが、無実の人に刑事処罰を科してはいけないという刑事裁判の原則に、忠実であろうという姿勢が示されている。当たり前のことが当たり前ではなくなっている中で、当たり前のことをする勇気を感じる判決」
そして目を引く、以下の判決文の「総括」。
「被害者が真に被害を受けたのであれば被害は甚大で、処罰が下されないのは不正義であり、被害者にとって甚だ残念なことは十分に理解できる。しかしながら、犯罪に当たる行為はなかったにもかかわらず、誤って認定し、刑事処罰を科すのはさらに大きな不正義といわなければならない」
“当たり前”のことを、あえてここまで判決文に記したのは、有罪率が99%を超える日本の刑事裁判において、「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」という“当たり前”の原則が形骸化しているからではないだろうか。
日々、裁判を傍聴していても振り返ってみると、この“当たり前”を実感する機会は少ない。
しかし、もし誤って判断し冤罪となれば、実刑なら自由、最悪の場合は命を奪われ、執行猶 予がついたとしても、周囲からの信用を失い、尊厳を傷つけられ、いずれにせよ人生を大きく狂わされる。取り返しがつかないのだ。
検察はこの判決に対し、控訴しなかった。
山田裕文裁判長が、なぜ“当たり前”のことを判決文に盛り込んだのか。私はいつかその答えを聞いてみたい。
関西テレビ 司法担当記者:菊谷雅美