「余命2年」宣告から7年超 アスベスト原因のがん・中皮腫で「呼吸するのも苦しい」 仲間の遺志継ぎ患者同士の交流続ける男性「僕より先に死なないで」 2024年02月10日
かつて、建物の断熱材などに使われていた「アスベスト」。知らず知らずのうちに吸い込み、がんを発症する人も多くいます。
余命宣告を受けてから、同じ病気で苦しむ患者たちと励ましあい、生きる希望を持ちたいと活動を続ける男性の姿を追いました。
■ある男性との出会い…患者の未来のために
2018年4月。この日、名古屋で行われたのは、同じ病気で苦しむ患者や家族の交流会です。
【右田孝雄さん】「一つだけお願いがあります。僕より先に死なないでください。僕は死ぬまで元気ですから」
右田孝雄さん(59歳)は2016年、アスベストが原因とされる特有のがん「中皮腫」で、余命2年と告げられました。
断熱性が高く、耐久性に優れていることから、かつては“奇跡の鉱物”と呼ばれたアスベスト。駅や学校など、私たちの身近な建物にも多く使われましたが、発がん性が問題となり、2004年に原則使用禁止に。
中皮腫はアスベストを吸ってから発症するまで一般的に数十年潜伏することから、今も年間1500人以上が亡くなっています。
右田さんは、同じような境遇に苦しむ患者のもとを訪れて不安を分かちあい、励ましあっています。そのきっかけは、一人の男性との出会いでした。
【栗田英司さん】「(中皮腫で)余命1年といわれて、結局、再発を繰り返しながら4回手術して今日まで生きているので。余命1年といわれてもそんなにくじける必要はないと思いますね」
栗田英司さんは、余命宣告を受けてから20年近く生き続け、「患者さんの力になりたい」と、右田さんと共に全国各地を回りました。
がんが肺や肝臓に転移しても、入退院を繰り返しながら、できる限りのことをやり続けました。
【栗田英司さん】「僕は残された命は短いかもしれないけど、自分の家族、友達、日本とか地域社会のために、アスベストという問題に対して自分が今できる最善のことは何かといったら、この活動しかないわけですよね」
2人は、治療法が少ない中皮腫の医療体制の充実を国に要望するなど、“患者の未来”のために動き続けました。
■“治らなくても満足できる生き方”とは
2018年8月。右田さんが余命宣告を受けた日から、2年がたちました。
【右田孝雄さん】「沙織、こんな元気で良かったやろ?」
【娘・沙織さん】「2年たったけど、元気で良かったよ」
【右田孝雄さん】「沙織の花嫁姿を見るまで死ねへん。沙織の花嫁姿と孫を見るのと、阪神優勝するまでは…。阪神優勝するのが一番難しいかもしれへんけど」
家族と明るく話す右田さん。一方、栗田さんは日に日に体調が悪化。それでも、できる限り患者たちの集まりには参加しました。
【栗田英司さん】「私たち一人一人の闘病生活は本当に大変です。苦しい毎日を送っている。それは本当によく分かります。“治らなくても満足できる生き方”…私は、いつも思っているのは、今を懸命に生きる。自分のやりたいことをやる。それでも自分のためだけに生きるのではなくて、他の人たち、これからの中皮腫患者を助けるための何らかのご協力をお願いしたいと思っています」
“他の患者を助けるため”。そう話した栗田さんは、この2カ月後に亡くなりました。
右田さんは栗田さんの遺志を継ぎ、新型コロナの流行で直接会うことが難しくなっても、オンラインで全国にいる仲間とつながり続けました。
そんなある日、栗田さんのお墓がある霊園に右田さんの姿がありました。お墓の前で手を合わせ、栗田さんに語りかけます。
【右田孝雄さん】「栗ちゃんのいない間、こっちも必死こいてがんばっているけど、まだまだそっちに行くことはできません。やることがたんまりありますから。栗ちゃん、がんばるので見守ってください」
そして、2021年11月。およそ2年ぶりに開催された交流会では、全国各地から患者や家族が集まりました。
【中皮腫患者】「岐阜から来た平田です。いつもZoomでしかお顔を拝見できなかったので、今日は本当に楽しみに来ました」
【中皮腫患者の妻】「私は2週間前に主人が亡くなりました。今日は全国から皆さんが来られるということで、私も前向きに明るく生きていきたいので」
参加者は皆、笑顔で話していました。笑いが絶えない、明るい会です。
【中皮腫患者】「こうやって右ちゃんがやってくれているのがね…」
【右田孝雄さん】「いや、僕がやっているんじゃない。みんなで一緒にやっている」
【中皮腫患者】「栗ちゃん亡き後、右ちゃんがやってね」
【右田孝雄さん】「僕より先に死んだらあかんって言っているやん。あの世に行ったら、罰金もらいに行くから」
“明るく前向きに”。そう思って生き続けている右田さん。
■「笑っていることで、力をもらえる」
余命宣告を受けた日から7年が過ぎ、長年の夢が一つかないました。
【右田孝雄さん】「やった!」
2023年9月。大歓声が沸き起こった球場で、笑顔を見せた右田さん。「阪神優勝するまでは死ねない」と言っていましたが、念願がかなったのです。
【右田孝雄さん】「(優勝した)9月14日以外(席を)取ってなかったから。ほんまに奇跡。奇跡です、本当に。阪神優勝するまでは死なれへんとか言っていて、優勝した時に現場に立ち会えた喜びはひとしおですよね。ほんま良かった。諦めなかったら夢って達成するんだなって思った。ほんまに奇跡」
しかしこの3カ月後、右田さんは呼吸をするのも苦しい状態になっていました。
【和歌山労災病院 細 隆信医師】「写真見たけどね、あんまりあなたには見せたくないんだけど。肺内の腫瘤が出てきたのと、こっち側がひどいことはひどい」
【右田孝雄さん】「先生の中では、ここに2カ月後に来られる確率は何パーセントですか?」
【和歌山労災病院 細 隆信医師】「2カ月間の期間でどれだけ大きくなるかやな。おそらく右肺はもう全滅してるかもしれんな」
現状は、思っていたよりも厳しいものでした。
【右田孝雄さん】「この階段だけでもあかんね。わずか十数段の階段でも息切れしちゃう。着実に進んでいっているのを見て、これあかんねんや、ってね」
その18日後、右田さんは意識を失い救急搬送されました。ICUで治療を受け、何とか一命を取り留めます。
【右田孝雄さん】「やっとリハビリができるようになりましたが、心拍数が140あるのでしんどい。動きに制限があるので、なかなかやりたいことができませんね」
片方の肺がほとんど機能しなくなり、退院しても以前のように生活することは難しくなりました。車から降りるのも、歩くのにも介助が必要です。
【右田孝雄さん】「まさかこれだけ筋力が落ちていると思わなかった。ちょっとスピードが早すぎるなって感じ。無理に長生きしてしんどい思いするんだったらね。娘と息子と話ができて、家族と話ができたらいいかなと」
そう話した翌日。右田さんはこの日も、患者や医師たちの意見交換会に参加していました。体調が悪い中でも、仲間のために動き続けます。
【右田孝雄さん】「他の患者といろんな話ができる。しかも皆さん笑っているんですよね。笑っていることで、力をもらえる。不安を取り除けるというのは、患者団体として必要ではないかと思って私はずっとやっているんですけど」
2020年代後半から2030年代に、患者数がピークを迎えるともいわれる中皮腫。
【右田孝雄さん】「これまでやってきたことは、ここでストップってわけにはいかんし。僕の使命だと思っているし、ここでストップしたら栗田英司さんに怒られる。そのために僕を長生きさせてくれていると思っている」
仲間と共に、最後まで戦います。
(関西テレビ「newsランナー」2024年2月7日放送)