震災から29年が経った今だから、話せることがあります。
【加藤いつかさん】「おかえり、ただいま、おはよう、おやすみ。その言葉はもう二度と聞くことができないです。自分に関わってくれる人たちと今一緒にいられる時間を大切にしてもらえたら」
命の大切さを伝えてきた「はるかのひまわり」。母になった姉が伝えたい想いとは。
■阪神・淡路大震災で亡くなった妹の「ひまわりの種」
【加藤いつかさん】「今日、クラスメイトとか友達、先生と『さようなら、また明日ね』と言って、その明日が絶対来るとは限らない。たくさんの偶然、奇跡が重なっていつも通りの毎日がある」
大阪の中学校で子どもたちにそう語りかけるのは、加藤いつかさん(44歳)です。
阪神・淡路大震災で、妹のはるかさん(当時11歳)が倒壊した自宅の下敷きになり、命を落としました。いつかさんが15歳の時でした。
【加藤いつかさん】「遺体安置所になっていた体育館で初めて妹の亡くなった顔を見た時、私の知っている妹じゃない。顔が腫れ上がっていて、体全体が青あざ・青たんみたいな感じでした。その顔を1回見ただけでその後は顔を見ることができませんでした。最後、骨になるまで」
その年の夏。悲しい記憶が残る自宅のあった場所に、はるかさんが持っていたひまわりの種が芽を出し、花を咲かせました。「はるかのひまわり」と呼ばれたこの花の種は、ボランティアの手によって全国に広まりました。
■東日本大震災で失った命 ひまわりが心の支えに
「はるかのひまわり」は中学校の道徳の教科書にも載っています。そこに書かれているのは、このひまわりの存在が心の支えとなった、佐々木清和さん(57歳)の話です。
【佐々木清和さん】「ここで生活してたよ、家族5人で。そういう証というか、『いたよ』という記憶を残したい」
陸上自衛官だった佐々木さんは、宮城県名取市閖上地区で、家族5人で暮らしていました。
2011年3月11日。東日本大震災が起き、8メートル近い高さの津波が佐々木さんの住む街を襲いました。佐々木さんは自衛隊としてすぐに災害派遣され、自宅近くで任務にあたっていましたが、家族とは連絡が取れないままでした。
10日後、義理の両親と妻、そして娘が亡くなったことを知りました。
佐々木さんは今も、自宅のあった場所でひまわりを育てています。2023年の夏には22本のひまわりが咲きました。
【佐々木清和さん】「妻が6月22日、娘が7月22日が誕生日だったので、22という数字は思い出の数字で、その数字が咲いてくれたのはうれしかったです。娘と妻が見てくれている気は(した)。世話した分だけ返ってくる。手入れした分だけ、大きな花が咲いたらうれしい」
震災の語り部として、当時の娘と同い年の中学生に想いを伝えます。
【佐々木清和さん】「子どもを亡くすのは親としては一番つらいこと。必ず人はいつか死にます。その瞬間が来るまで自分の寿命まで精いっぱい生きてほしい」
■妹への嫉妬…姉が抱いた複雑な思い
4歳下の妹のはるかさんを亡くした、加藤いつかさん。震災が起きてから、ずっと複雑な思いを抱えていたといいます。いつかさんは大阪の中学校で、その気持ちを生徒たちの前で話しました。
【加藤いつかさん】「家に帰るとお母さんがずっと泣いているんです。お母さんの意識は亡くなった子の方ばかりです。全然こっちを見てくれない。私のことを見てほしいという気持ちがすごくありました。左手にリストカットの痕がいっぱいあるんです。もう20年くらい経つので薄くなってきたんですけど、リストカットもいっぱいしました。電車に飛び込もうと思ったこともいっぱいありました。変な話、妹に嫉妬するようになったんです。そうか、自分も死んだらお母さんすごく心配してくれるんじゃないか。私のことも見てくれるんじゃないか」
親身になってくれた友人の存在や、他の遺族の話を聞くことで、はるかさんの死に対して正面から向き合うようになりました。
【加藤いつかさん】「おかえり、ただいま、おはよう、おやすみ。その言葉はもう二度と聞くことができないです。皆さんには生きているこの瞬間、自分の周りにいる人、家族、友達、先生をはじめ、自分に関わってくれる人たちと今一緒にいれる時間を大切にしてもらえたらなと思います」
いつかさんの話を聞いた生徒たちも、それぞれに感じたことがあったようです。
【中学生】「僕にも弟がいるんですけど、けんかして悪口を言ったりするんですけど、最後の言葉が『死ね』とかだったら、嫌だなと思いました」「話してもらったことを絶対に無駄にしないように、周りにいる人を大事にして生きていこうと思いました」
この中学校にも、「はるかのひまわり」が咲いています。
■震災のつらい記憶はすぐよみがえる
6年前、いつかさんは新たな命を授かり、母親になりました。
Q.母親になってから気持ちの変化は?
【加藤いつかさん】「そこはちょっとある。(母親が)自分よりも先に子供が亡くなってしまったことで、ものすごく悲しんだのは理解できるかな」
自身も母になり、少し母親の気持ちが分かったという、いつかさん。そんな中、震災のつらい記憶が今も胸に残っていることに気づかされる出来事が起きました。
【加藤いつかさん】「元日の能登半島地震の映像を見てフラッシュバックを起こして、当時のすごく嫌だった気持ちとか、15歳の時の自分が感じた映像とかがよみがえってきて、29年経ってもこんな簡単に戻るんだ、と」
1月13日、阪神・淡路大震災を追悼するコンサートが神戸市で開かれました。題材は「はるかのひまわり」。いつかさんがこれまで書き残してきた、当時の記憶が朗読されました。
【朗読】「妹がどんなに大切な存在だったのか。そして、妹を失うということは、自分の体の半分を切り裂かれるようにつらいということ」
いつかさんは5歳になった娘の良ちゃんに、これまで「はるかのひまわり」の話を伝えていませんでした。会場で良ちゃんと共に、朗読に耳を傾けるいつかさん。
【朗読】「あの大震災からもう29年になりました。私は44歳です。考えたこともない、震災での妹との突然の別れ。母となかなか分かり合えず、衝突ばかりしていたこと、他にもいろいろあったと思います。でも、そのいろんなことがあったから今の私ができたのだと思います。妹の残した、はるかのひまわり。そのご縁でつながった方々には感謝しかありません。たくさんの人が亡くなり、その中の1人である、はるかの名前が残って伝えてくれる命の大切さ。たくさんの人に知っていただけたらと思います」
幼い良ちゃんには、この話を理解するのはまだ難しかったようですが、いつかはきっと受け止めてくれるはずです。
そして、1月17日午前5時46分。今年も“この日”を迎えました。
【加藤いつかさん】「阪神・淡路大震災のことはもちろん、そこで亡くなった人たちへの気持ちはありつつも。今年の能登半島のこととか、知り合った東日本大震災のご遺族の方とかと、亡くなった方に対して祈る時間、祈る意味合いは深くなったのかな」
29年経っても伝える、震災の記憶。「はるかのひまわり」はこれからも咲き続けます。
(関西テレビ「newsランナー」2024年1月17日放送)