“酒造り経験はゼロ”元高校教師が酒造りの道へ 杜氏不在で創業以来初の酒造りを断念 かつての生徒とともに歴史をつなぐ “ライバル”の酒蔵が指導「2軒ともおいしければ、わくわくする」09月20日 08:00
“日本酒発祥の地”と言われる兵庫県宍粟市。
この地に、創業から258年を誇る老舗酒蔵「老松酒造」があります。
しかし去年、日本酒造りに不可欠な杜氏が不在となり、創業以来初めて酒造りを断念するという危機に直面しました。
その蔵を継ぐために立ち上がったのは、15年間教壇に立ってきた元高校数学教師・前野貴行さん(39)。
酒造りの経験は“ゼロ”ながら地元で生まれ育った蔵を守るため、前野さんの挑戦が始まりました。
■ 創業から258年 残る酒蔵は2軒だけ
宍粟市はかつて多くの酒蔵が軒を連ねましたが、現在も酒造りを続ける蔵は2軒のみとなっています。
そのうちの一つが「老松酒造」です。
しかし、去年の夏に深刻な岐路に立たされました。
日本酒造りに欠かせない最高責任者である杜氏が、親の介護のために不在となり、その年の酒造りをやむなく断念。
創業以来、初めての出来事でした。
老松酒造の専務である前野さんの母親は、「辛かったですね。この歴史のある蔵を守る部分で、日本酒を造れないことはすごく辛かった」と当時の心境を語ります。
■酒造りの経験はゼロ 新社長は元数学教師
誰かが造らなければ、「老松酒造」はなくなる。
その危機感を受け止めたのが、長男の前野貴行さん(39歳)でした。
15年間、高校で数学を教え続けてきた前野さんは、ことし3月に教壇を離れ、6月に老松酒造の社長に就任します。
【前野貴行さん】「全然違う人が生まれ育ったここで老松酒造やってくのはなんかちょっと嫌だなというか。だったら自分が継ごうかな」
(Q:酒造りの経験は?)
【前野貴行さん】「ないッス。全くゼロ。飲む専門ですね」
■「不思議な縁」元高校教師と元生徒の異色のコンビ
この日、蔵の中で仕込んでいたのは日本酒ではなく甘酒。
杜氏不在のため日本酒は製造できないものの、「お酒以外の発酵商品は、造れる範囲でやってます。ただお酒は造れないから」と前野さん。
そして、老松酒造で前野さんとともに働くのが、森下朋哉さん(21)です。
森下さんは、かつて前野さんが働いていた学校の生徒でした。
【老松酒造・森下朋哉さん】「自分が高校時代のときの学生、先生っていう感じで。やっぱり何か不思議な縁ってあるんかなみたいな」
元高校教師と元生徒という異色のコンビが、ともに酒造りの修業に臨むことになりました。
しかし、二人には肝心の師匠がいません。
■60メートル先のライバル酒蔵が手を差し伸べ「2軒ともおいしければ、わくわくする」
そんな二人に声をかけたのが、老松酒造からわずかおよそ60メートルの距離に構える「山陽盃酒造」でした。
宍粟市に残るもう1軒の酒蔵であり、長年にわたるライバルです。
山陽盃酒造の社長兼杜氏である壺阪さんは、ライバルへの支援を提案した理由をこう語ります。
【山陽盃酒造・壺阪雄一社長】「もちろんね、ライバルですよ。同じ地域で同じ日本酒を造っている。もちろんライバルではあるんですけど」
そのうえで、壺阪さんはこう続けます。
【山陽盃酒造・壺阪雄一社長】「宍粟市に1軒じゃだめだと思ったんですよね。2軒日本酒を造ってる蔵があって、なおかつその2軒がともにおいしいっていうお酒ができるんだったら、自分としてはすごくわくわくする」
■職人の“感覚”を体に叩き込む
前野さんと森下さんはことし4月から3カ月間、山陽盃酒造に通い、酒造りの基礎を一から学び始めました。
酒蔵での作業は、午前5時半から始まります。
山陽盃酒造の職人たちに教わりながら、前野さんは麹の扱い方を身につけていきました。
この日取り組んだのは“種切”という工程。蒸した酒米に麹菌を振りかけるもので、日本酒造りにおいて大事な工程です。米全体に均一に行き届かせる必要があります。
バランスよく振りかけるには、まさに長年培われた感覚が問われる作業です。
まだまだ経験不足な前野さんですが、修業に熱心に取り組む姿に、山陽盃酒造の職人からは「真面目なんでほんといろいろ教えたくなるというか。教えてて、将来が楽しみかな」と話します。
■修業の道は平坦ではない 酒造りへの向き合い方も学ぶ
修業から2カ月ほど経ったころ、前野さんはもろみの入ったタンクの栓を開け忘れるミスをしてしまいました。
【前野貴行さん】「ここ開けてなかったんですよ。開けるのを忘れてました。僕のミスです」
修業の道は平坦ではありません。
壺阪さんからは技術的な指導だけでなく、酒造りへの向き合い方も伝えられます。
【山陽盃酒造・壺阪雄一社長】「自分が思う酒を自由に。既存のものにとらわれる必要性はない。どんどん変えていったらいい」
■「緊張する」 自分たちで造った酒を初めて口に
修業もいよいよ終盤を迎えたある日、前野さんと森下さんは初めて自分たちが製造に関わった日本酒を口にしました。
グラスを前にした前野さんは「緊張する」とつぶやき、一口飲んだ後、「うまい」と静かに言いました。
【前野貴行さん】「今まで造ってない状態で飲むのと造ってから飲むのとまた違う。すげえ。すごく大変やなと思う。ほんまに造っとる人らはすごい。マジで」
■「1年目でもすばらしいものができるんじゃないか」
【前野貴行さん】「道具も違うし、施設も違うし、当然人も違うけど、いろんな造りの基本は教わったんで、それを生かしていい酒造りたい」
修業を終えた二人に対し、壺阪さんは「ここでの経験を踏まえながら、どんどん深いところの目標を立てるようにしていったら、1年目でもすばらしいものができるんじゃないかな」と期待を寄せました。
自分たちの味を目指して、11月、「老松酒造」は初しぼりに臨みます。
(関西テレビ「newsランナー」 2026年9月17日放送)