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ハンセン病元患者の詩や短歌から知る 『療養所での暮らし・家族やふるさとへの思い』(朗読:関西テレビアナウンサー 竹上萌奈)02月28日 16:00

2月21日、大阪市阿倍野区で『ハンセン病問題講演会「ハンセン病家族のいま 家族の思い、家族への思いを語る」』が行われました。 この講演会は、大阪府や市が地方公共団体としてハンセン病の強制隔離政策に加担した反省から毎年行われていて、今回で22回目です。 今回は、関西テレビの竹上萌奈アナウンサーが、元患者たちの詩や短歌を朗読しました。 その内容をお伝えします。 ■ハンセン病 国は過度に危険性を強調・法律で患者を「一生隔離」

ハンセン病は「らい菌」による感染症で、現在の日本で感染する人はほとんどいません。 有効な治療法がない時代は、病原性が弱いものの顔や手が変形するなどの後遺症が出る人もいました。 国は「恐ろしい伝染病だ」と過度に危険性を強調して恐怖心をあおり、1931年(昭和6年)「すべての患者を一生隔離する法律・癩(らい)予防法」を作って、患者を次々と療養所に閉じ込めました。 患者が出た家は差別と排除の対象となり、離婚・失業・一家心中に追い込まれることもありました。 ■日本は諸外国が隔離廃止後も続け法律廃止は1996年

戦後、諸外国では治療薬の登場などで治る病気となり、隔離政策の廃止が進みましたが、日本は政策を続け、法律が廃止されたのは1996年(平成8年)になってからでした。 国民にハンセン病に対する差別や偏見が植えつけられ、療養所にいる多くの元患者が、家族と断絶し、故郷に帰ることができなくなりました。 過酷で孤独な日々。療養所では、詩や短歌、俳句など自分の想いを表現する多くの文芸作品が生まれました。 私たちがハンセン病問題を知る中で、それらの作品から故郷・家族への思い、療養所で生きざるを得ない絶望的な気持ち、喜怒哀楽、四季の変化、仲間との交流などにふれることができます。 それらを置き去りにしないように作品に込められた三人三様の人生を受け止めたいと思います。 ■1937年小学4年生で病気が判明 自ら療養所へ入った女性本山美惠子さん 1937年、香川県で生まれ、小学4年生のとき身体検査で病気が分かります。休学させられ自宅治療していましたが、10歳の年齢で「自死」を何度も考え、同級生が中学を卒業するとき、我が家には迷惑をかけられないと自ら療養所・大島青松園に入る決心をしました。岡山県立邑久高等学校新良田教室の一期生です。学校にあこがれつづけていたので大きな喜びでした。 1985年、外の病院で乳がんの手術を受けたとき、療養所入所者ということは関係なく「普通」に接してくれたことから、短歌教室に通う決心ができて短歌を詠んでいます。 2009年72歳で大阪に退所しました。 母を詠む 繰り言も昔話もせぬ母の過ぎ来し思う切なかりけり 教科書をなぞり梅酒のしぼり染めを母は教へき休学の吾に 赤い服選びくれざりし母思ふ幼く病みいし吾をかくまひて 兄を詠む 何を思い送りし兄か醤油豆の小袋一つの宅急便来つ 父を詠む 子や孫にと父の植えにし庭の果樹切られ曾孫の駐車場と化す 自分を詠む 土捏ねて作りし壺を抱き帰るみどり児の重さ知らざる腕に 五十年異国の思ひに住みし島去る日の来たり夢にはあらず ■在日コリアン・ハンセン病回復者として模索した人生

成 相ヨン(ソン・サンヨン)さん 1935年、日本による植民地支配を受けていた朝鮮・慶尚南道密陽郡(キョンサンナンドミリャングン)に生まれました。父親が香川県直島の三菱直島製錬所に動員され、のちに呼び寄せとなり、8歳のときに母親と日本に来ました。 1949年、長島愛生園入所。本山さんと同じく岡山県立邑久高等学校新良田教室の一期生です。園では同人雑誌『裸形』『朝鮮人』『らい』の編集に関わり、文芸活動のなかで多くの作品を表しています。「僕の花」は『裸形』同人誌の創刊号に掲載した詩です。 1957年社会復帰、在日コリアン、ハンセン病回復者として模索する日々で、部屋には蔵書がいっぱいでした。 2023年帰らぬ人となりました。 詩 『僕の花―祖国に寄せて―』 僕の心の中にふみにじられた 花が咲いているのだ 遠い故里の国は 二つに割れている 僕の心の中の花は ふるさとの荒地に芽ばえようとする 僕は異国の大地に背を向けて 西の空に新しい思想をなげる 僕の心の中の花は 確実な僕の情熱ではぐくまれる だが 異国は砂だらけだ 短歌 1951年に詠む (倉敷に住んでいた時) 友達と遊ぶ日もなく奥の間に隠れ病みつつ二年過ぎぬ (愛生園に入った時) ふり返りふり返りつつ帰る母我がまぶたのかすみつつ見ゆ ■赤痢患者を看護し病状悪化 視力失うも晩年までハーモニカ演奏に打ち込む近藤宏一さん 1926年、大阪府高石市に生まれました。1938年長島愛生園に収容されました。 戦後、患者作業で赤痢になった少年の看護に従事、自らも赤痢にかかりハンセン病も悪化して視力を失いました。 後遺症も進み、わずかに知覚の残る唇と舌でハーモニカに挑戦、1953年、園で視覚障害を持つ入所者たちを中心にしてハーモニカバンド「青い鳥楽団」を結成しました。園内・園外での演奏活動を行い、社会に大きな影響を与えました。 1976年にバンドは解散、その後は晩年まで各地の学校、集会等講演活動の時、ひとりでハーモニカ演奏を継続しました。 2009年亡くなりました。詩 『入園番号』 四四三四-これが私の入園番号 骨張っていて 少し不安定に傾いていて なんとなく泣きべそをかいているその文字づら 治療室のカルテに 年金袋に 選挙のときの入場券に それはいつでも私の名前と同じ重さで登場し 里帰りの順番がくると 帰省願書にもその通りに書いてから捺印する 四四三四 四四三四 はじめの頃は他人行儀でよそよそしいだけの 数字であったのに 使われやすくて簡単で トレードマークのような気軽さと 改名のような親しさと- それでいてなんとなく抵抗を感じさせながら それはもう三十年も私のなかに住みついてきた一つの抽象 さきにもない あとにもない ただひとつだけの私の顔 -道を行くとき もしもそれが地面に落ちていたら 私はいきなり拾い上げて泥だらけのままポケットに しまいこむだろう ぶつぶつつぶやきながら しかしごく自然に やがて私が息をひきとるとき 人事係りの帳簿に赤い線が引かれ それらは私とともに再び帰らぬ歴史となる 一から始まったおびただしい数字の行列が 次第に消されていったように 四四三四もまた永遠に空き番号となる 詩 『わが愛しきふるさと 刈田』 ポプラ並木の梢が夕空を掃く 刈田に人はいず 馬がはねる しのだ山のふもとを阪和電車がはしる ああ風のように旋回する群雀の羽音よ 煙ひとすじ刈田の空へ 夕日に残る野立ての広告塔よ どこかで子どもらの声がする もう初午はちかい 葛の葉の稲荷の森にあかい幟がたち神楽囃子の太鼓がとおい 刈田は広くてさびしいなあ しずかでかなしいなあ なえた手をほほにあて 歌っていよう 母のおしえた わらべうたを

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