「精神病と噂になる」心療内科受診を止められた息子を失った母 阪神・淡路大震災では理解されなかった「心のケア」01月17日 16:00
崩れ落ちた建物。街には怪我をした人があふれていました。しかし、傷ついたのは体だけではなかったのです。
「こないして布団被ってな、お母さんお母さんって3回くらい呼んだんだけど、それっきりな、お母さんお休み言うたっきり、ずーっと寝てしまったわ」
31年前の1995年1月17日。阪神・淡路大震災が発生し、大切な人の突然の「死」に直面し、心の平穏を保てなくなる人が大勢いました。
■「死のうって思った」 長男を失った喪失感
岡部香津子さん(77)の長男・正則さん(当時21歳)は、小さい頃から大のお母さん子でした。
「声が綺麗で歌が上手で本当に。『津軽海峡・冬景色』を歌わしたら、もうほんまに上手で綺麗な声で。小学1年生からエレクトーン習いだして、エレクトーンもうほんまに自由自在に弾いてました」と岡部さんは懐かしそうに話します。
大学を出たら、実家の測量事務所を継ぐと話していた正則さん。
岡部さんは母として、それが待ち遠しくありました。
■神戸市東灘区の死者は1400人以上
正則さんが住んでいた神戸市東灘区の死者は1400人以上。震災で最も犠牲者が多かった地域でした。
正則さんの下宿先のアパートも全壊。駆けつけた岡部さんが2日間かけてがれきの中を探しましたが、すでに息絶えていました。
「葬儀場いったら私もお棺にしがみついて、『自分も燃やしてくれ』って言って、みんな困らせて。でももう離れられへんかって...私も一緒に燃やしてって無茶ばっかり言うてんけど。あんな悲しいこと、今思い出しても…」と岡部さんは涙を流します。
息子を失った喪失感から、「死ねば会えるだろう」と自殺をしようとしたこともありました。
■「心療内科に絶対行ってはいけない」と友人に言われ
岡部さんの心の不調は、日に日に悪化していきました。
「仕事に行ってもお客さんの前ではしっかりして話は聞くけど、そこでは泣けないので、車に乗っらもうほんまに涙がこぼれて。前が見えなくなるくらい涙が出て。寝込んでしまい、起きることでもできず、再起不能みたいになってしまって」
ある日突然、家で意識を失って救急搬送され、心療内科の受診を勧められました。しかし周囲からは受診を止められたといいます。
「お友達に相談したら岡部事務所の奥さんが心療内科に行ったと知られたら、精神病になったと噂になって測量事務所の名前が傷つくから、絶対行ってはいけないって」
それでもすがる思いで受診し、診断されたのは「PTSD」でした。強烈な精神的衝撃を受けた後に、その記憶が突然よみがえり、無気力・睡眠障害などに悩まされる障害です。
震災後の継続的な調査で、うつ状態、アルコール・薬物依存など、被災者が多岐にわたる心の問題を抱えていたことが明らかになっています。
■幼い弟の遺体を目にした小1男児「真っ黒な絵」で心のSOS
心のケアに救われた人もいます。当時小学1年生だった柴田大輔さん(38)は、震災で弟の宏亮くん(当時3歳)と知幸くん(当時1歳)を亡くしました。
「ちょうど駐車場のところですね。ここが家があったところですね」と柴田さんは当時の場所を指さします。「何が起こったんやろうなっていうのが真っ先に思いましたね。なぜ二階が落ちてきて畳がこの真上にあるのか」
全壊したアパートから両親と柴田さんは助け出されましたが、火が燃え移り弟たちは助かりませんでした。運び出された2人の遺体を見て、強いショックを受けました。
「ある日学校行ったときも、図工のときに絵を描く時間で描いてたらなんか黒で塗りつぶしとったらしいんで。学校の先生がそれを気づいて親父に電話してくれて、すぐに僕、病院連れて行かれた。心の病気みたいな感じで、何かなってるといわれたんで」
学校の先生のおかげで、医療につながることができました。その後も、塞ぎがちになってしまった柴田さんを、先生たちが細やかにケアしてくれました。
■学校行きたくない...「校長室おいで」
「校長先生と担任の先生にものすごいお世話になって。教室行きたくないとか、学校行きたくないってなったらもう『校長室おいで』って。校長室で校長先生に勉強教えてもらうっていうのがもう当たり前になってたんで」
「担任の先生と一緒にオリックスを応援してたっていうのがね、試合があった明くる日はオリックスの話をしたりとかね。特にイチローの話はね、一番してたんで」と懐かしそうに語る柴田さん。
「自分自身の心が傷ついてるということも多分わかってない状態だと思うんでね。やっぱり身体だけじゃなく、心のケアっていうのはものすごい大事かなあ」と振り返ります。
■認識変わった"被災者ケア"
震災の直後に現場に駆けつけた精神科医がいます。加藤寛医師は、犠牲者や被災者の多さから、深刻な心の問題が起こるのではないかと危惧していました。
「日本で起きる災害の多くはね、過疎地で起きることが多い。そうすると報道として災害の被害状況は伝えるけども、被災した人の状況までは伝えないことが多かった。ところが阪神・淡路大震災は都市部で起きた。被災者がどういうふうな苦境に立たされてるかっていうことが国民に報道される災害だったんですよね。彼らが困ってる、しかもその心を非常に痛めてるってことが、みんなが知ることになったわけです」

「継続して、心のケアをする必要がある」
加藤医師の活動などがきっかけとなり、震災から半年後、国の復興基金をもとに『こころのケアセンター』が設立されました。
設立から半年間で、相談件数は3000件を超えました。阪神・淡路大震災以降、日本では大きな災害が起こると、その場所に『こころのケアセンター』が作られるようになりました。
■「いま不幸ではない。ごっつい幸せでもないけど、普通に生きています」
心の傷が、長きにわたり癒えないことも、その後の調査で明らかになっています。
長男・正則さんを亡くし、PTSDに苦しんだ岡部さん。心療内科に通い、薬を飲む日々が、およそ20年間続きました。
「岡部さん元気になったね、よう乗り越えたねって言ってくれる人もいるけど、私なんにも乗り越えてないよって思う。何も乗り越えてないで、いつも心の中に悲しい涙がこぼれとるで、と。
だけど、人に涙を見せたり、悲しいねんって言ってたら誰も相手にしてくれない。またあんなこと言ってるわって思われるだけ。だから、平気な顔して平静を装って、にこにこ笑ってそんな話は一切もうしない」
心の傷と生きていくために…音楽が好きだった正則さんとのつながりを求めて、数年前からハーモニカを始めました。
「ちょっと吹けるようになったら聞いて聞いてって、遺影の前で吹くんです。息子が上手やなとか下手くそやなとか言うてくれるんで」と微笑みます。
「いま不幸せかっていったら、いいえ不幸せではない。ごっつい幸せかっていったらごっつい幸せでもないけど、普通に生きています」
阪神・淡路大震災で心に深い傷を負った人たちの31年間の歩みが、今では当たり前となった被災者の「心のケア」を後世に残してくれたといえるかもしれません。
(関西テレビ「newsランナー」2026年1月15日放送)