関西テレビ放送株式会社

 

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  • 2.1995年1月17日 阪神・淡路大震災の教訓から

(1)家のドアを開けたらそこは被災地

日常の暮らしからは非常事態を想像することは難しいことです。しかしある日突然、自宅のドアを開けたときから衣食住を自分達で確保しなければならない非常事態の世界が始まります。大災害時の現場の状況については十分想像力を働かせて準備し行動する必要があります。取材応援などで現地に入るときは、2日分の水や食料や宿泊手段などを自分たちで確保し、援助を受けない準備と対策が大事です。


証言① 報道記者
現場のコンビニなど食料品はどこも売り切れ、中継班が交代するまで飲まず食わずとなりました。被災者も同じなのでこれ見よがしの弁当を食う報道陣という立場にならなかっただけマシ(負け惜しみ?)ですが長期の取材体制を考えると食料、飲料の備蓄は必要です。
ちなみに私の場合当初の1週間は飢餓状態で激ヤセしました。また服装ですが事件記者よろしくスーツにワイシャツ、コートでの出動、1週間から10日間ほどは着替えることもできずドロドロの状態。白いワイシャツは真っ黒に……。


証言② 四国からの系列局スタッフ
四国から応援に神戸に向かう中継車に乗り込み、途中食料を確保するつもりだったのですが現地に近づくにつれて前へ前へと気持ちが高揚し、食料調達をしないまま現地に着いてしまいました。それから2日間、関西テレビの支援体制が確立されるまで食事という食事は取れませんでした。

(2)市民として何ができるか? 放送局社員として何ができるか?

発生時直後は何が起きたのか? 誰も全容を知りません。災害被害の正しい情報が最初からあるわけではなく皆さんの目の前で起きていること、皆さんが見聞きしたことが情報です。報道局といっても特別のツールや特殊能力があるわけではありません。一つひとつ電話を重ねて取材を続け、情報が正しく集約できるまでには、ある程度時間が必要です。そんなとき皆さんの情報がどれだけ貴重なことか。家庭用ビデオ、デジカメなどの映像素材の提供はもとより、電話リポート、取材対象者の紹介や依頼、情報の収集など取材協力を求めています。


証言① 制作技術員
地震発生で自分のマンションにも大きな被害がでた。目の前に援助を必要とする母子がいた。会社に行くべきか? ここで援助活動をすべきか? 悩んだが地域を見捨てることができず支援活動に参加した。しばらく現場が落ち着いて緊急事態を脱したと判断して会社に向かった。あの判断は良かったのか? 今も考える。

証言② 事務系幹部
……報道の職業意識には感心した。私は被災後すぐ近くの老母のケアに行ったり家族の世話で忙しく1週間くらい正直なところ会社のことは……。そのときいろんな職場で全員出社の体制で放送を守るために仕事をしていたわけだ。家の事情もいろいろあるだろうに……。

「生きてるか!」と家族に声かけて、とるものもとりあえず会社に飛び出した放送・報道などのスタッフ。自分の家庭を後回しにしてしまったという自責の思い。基本的な被災時の対応としては、まず家族の安全を確保し、また地域コミュニティとの関係、役割も大事にしなければなりません。その上で放送局の放送・報道の使命をどう果たしていくか、その立場を家族や地域に理解してもらう必要があります。


(3)想像を超える 切実な課題?

取材体制が整備され取材班が動き始めるころ、被災地では想像を超えるさまざまな問題が沸き起こっていました。のちに公共広告で「飲料水の情報」が放送されました。犠牲者をどう荼毘(だび)に付してさしあげるのか? 「トイレ」問題もそうです。br /> 阪神大震災以後にトイレをテーマに本が何冊かできたくらいに、被災地ではこの問題は深刻でした。


証言 報道記者
……電気も水道もない状況、全国から集まる報道陣、取材体制の構築と放送対応、その現場の裏側で密かに進行していた危機。いつの間にか、神戸支局のビル内のトイレは言葉にできない無残な様となりました。流す水もなく誰もその状況を解決する方法をもってなかった。……私たちがようやくその問題の重大性に気づき、対処を始めたのは多分数日後だったと思う。海に面している神戸の地の特性を生かし、大型客船を停泊させて、取材陣の休憩待機、宿泊施設とした。定期的に支局と客船の間に連絡便を走らせた。すこし抵抗はあったが、私たちは感謝を込めて『うんこ船』と称した。

道路が通行可能になると大阪から、トイレ付きの観光バスを毎日貸切運行しました。2007年3月にできた小型バスの「報道現地指揮車」にもトイレが組み込まれました。


(4)応援取材の心がけとは?

大災害では系列局の取材応援はありがたいものです。現在ではFNN系列の取り決めも整備されスムーズな応援体制ができています。


証言 報道デスク
系列局から1クルーが取材応援に駆けつけてくれました。名刺交換した本社デスクは挨拶もそこそこに再び放送の作業に専念しました。かなり時間が経ってからこのクルーから抗議がありました。『せっかく応援に来たのに何の指示もない!』と長い間待たせたままにしてどういうことなんだと、関西テレビの対応に抗議、仕事がなければ帰社するという内容でした。これに対して当時の報道部幹部は、『ご苦労様でした。どうぞお帰りください』と返事したのです。

発生当時の報道のデスクがどんな状態だったのか? 当時本社デスクは応援部隊に細かな取材指示を出せる状況になかったと思われます。被災地は広範囲であり、至る所どこでも取材ポイントになりました。自分自身で状況を判断して取材活動を展開していただきたい、というのが本意でした。「応援は現地局の傘下に入る」という通常のルールが通用しなかったケースです。ずいぶん失礼な対応だったと思いますが「指示待ち」では機能しない場合もあるということです。応援に行って食事や宿舎など地元局の手を煩わせるようでは応援になりません。大災害非常事態ですから何事も自給自足が原則です。


(5)非常時にどう備えるか! いつもやっていることしかできない?


事例 神戸海洋気象台の話
神戸海洋気象台は発生直後に正確な神戸市内の震度を発表したが、すぐ機器故障で通信不能となった。
当時の担当者は壊れた観測機器の室内で「地震直後の人間の対応としては、何をしたらいいのか? まったくわからない状態になる。結局、日常行っていることしかできない。できるだけ日常のなかに非常時の対応策を組み込んでおくべきだった」と後日語っている。
NHK神戸放送局。当時の担当者は地震の発生と同時に気象台に電話をして、最初で最後の「神戸市の正しい震度7」を確認している。これも「電話で確認する」という日常の手順に基づいたものだったという。

(6)事故・災害の特性を理解しておこう!

災害の形態は、大雨、台風、地震、津波、火山爆発、放射能漏れ事故、伝染病などさまざまです。災害発生の現象やメカニズム、原因、変化、対策などその特性を日頃から研究し、取材計画と体制を作ることが大切です。また現場の地形や気候風土、自然の植生、社会文化なども大いに参考になる情報です。津波と高波、風台風と雨台風で被害が違うように、起こりうる事態を想定して危険に備えることが大事です。現場での状況判断は、本社の安全管理責任者などデスクとの相談はもとよりですが、現場に対峙する取材者自身が「行く勇気、引く勇気」をもって安全を確保しましょう。軽率な行動は自分自身を危険にさらすだけでなくスタッフも巻き込み、自らが救済の対象になって迷惑をかけることになってしまいます。


事例① 火砕流に巻き込まれた報道陣
1991年6月、雲仙普賢岳の噴火取材中の報道陣が、大火砕流に巻き込まれテレビ長崎のカメラマンら報道関係者16名を含む43名が死亡。
報道陣が待機していた場所は当時、危険なエリアとは考えられていなかった。


事例② 広域災害、被災地への想像力
台風が自社エリア直撃の進路を外れたとしても、それは別の地域が被災地となる、という厳粛な事実に目を閉ざしていいということではない。「2時ドキッ!」は「番組販売」による限定的な地域ネットであるが、西日本の系列局が台風情報をリレーする連携が何度かあった。台風の進路にあたる局が自社差し替えで台風情報特番を編成することは当然だが、「発局」としての関西テレビとしても、同時進行で台風災害と格闘している地域と地元局があることに、想像力をもたなければならない。
自社エリアが「進路から外れた」情報は伝えるとしても、被災(進路)地域に対する配慮は必要である。

(7)統括デスクの任務 司令塔体制が必要


証言 当時統括デスク
……特筆すべきは統括補佐である。統括デスクには大規模災害や大事件の際、膨大な量の情報を突きつけられ、瞬時の判断、対応を迫られる。こうした場合、私の経験では「判断は即決、先送りはなし」が原則だと思う。指示を求める相手に対して「YES,NO」をその場ではっきり伝えることが肝要。もし即断不可能な場合は「今即断できない。○○分後にもう一度連絡を!」と相手からの再度の連絡を求める。「後で指示する」とか「ちょっと待って!」は禁物である。次々ともたらされる課題が積み上がり、先送りした問題を振り返る余裕がなくなる。相手も忘れ去られた問題の返信を待って無駄な時間を過ごしてしまう。
そうしたなかで意味があったのが統括補佐であった。当然ながらデスクは神様であるはずはなく、すべての案件を瞬時に判断することは絶対に不可能である。さまざまな状況下で迷い、悩み、それでも「即決を」と努力を重ねる。その時、自分の判断が正しいかどうか、賛同を求めたい時、セカンドオピニオンが必要と思った時、「この判断をどう思うか?」「この案件をどう考えるか?」と問う相手がいることがその場に立たされた者にとって計り知れない意味のあるものであった。